戦後史  中村政則

On 2011年7月29日, in 政治・経済, 書評, by admin

戦後史 (岩波新書 新赤版 (955))

この20年間に及ぶ低い経済成長率は米国追随モデルの崩壊が要因と言われている。しかし未だあらたな成長モデルが構築できない。この原因がアイデンティティの欠如とある多くの識者が論じている。掘り下げて考察するにアイデンティティの欠如は、共通の歴史認識が無いことにある。義務教育、高等学校における近現代史教育にまで遡って考える必要があるのだろう。本書は多くの人々が不足するだろう戦後史について多くを学ばせてくれる貴重な一冊だと思う。

1945年から60年を「戦後の成立」として本書は捉えている。その理由を「…1960年代は、戦後の基本的枠組みが定着した時期であり、それ以前と以後の時代を見はるかす展望台的位置を占めしており、1990年代はこの基本構造が壊れる分水嶺的位置を占めるという認識をベースにしている」とある。確かに“敗戦と占領、朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約”と戦後の枠組みが作られた時代と捉えることができるだろう。

60年以降90年にバブルが崩壊するまで前記した米国追随型、官僚先導型、護送船団モデルによる経済主導型で国造りがなされてきた。これは一つの思考の枠組みと捉えることができる。また経済だけを考えれば良かった時代とも言える。しかしアイデンティティや思想、政治や防衛ということを考えずに生きたこの戦後65年は“緊張”という言葉を失念させたようにも思う。さらには、この30年で蓄財された資産を90年以降の20年間で食いつぶしながら我々は生きてきた。緊張の欠如からか“タイタニック”にさえ例えられている。こうしたことからだろうか政治には理念もデザインもまったく感じることができない。失言を超えた言葉遊びが国の要である安全保障政策までも揺るがすのである。

近来、中国は極めて身勝手な振る舞いは、近隣諸国に対して不快な思いをさせている。尖閣、南沙諸島と理解不能な行動を続ける。品格無き中華思想が要因なのだろうか。本書は日本の戦後史を論じているのであるが、こうした気品の無い行動をする理由の端緒を教示してくれるのである。詳しくは本書に譲りたい。

国内は無邪気で怠惰な甘えが永遠に続くと錯覚している。これが混沌とさせる最大の要素だろう。甘えを断ち切り良い意味での成熟した社会にするには、本書のような近現代史を学び国としての価値観を共有する必要があると私は思う。

本書は戦後史を学ぶ教科書だと思う。

 

国内MBA研究計画書の書き方―大学院別対策と合格実例集

研究計画書を書く必要があり本書などを再読した。本書をもとにすこし自分の考えをまとめてみたい。

問題意識は「中小企業の倒産」にある。自らのキャリアは中小企業と関連づいている。クローズする企業の多さから具体的数値をリサーチしたことがある。中小企業庁の発表によると起業後3年で約50%の会社が廃業に至る。一見多いようであるがこれは米国、欧州などでもあまり変化はない。経営が成功する最大の変数は“経営者個人”にある。しかし経営者の能力を引き出す変数があることも事実だ。それは分業が可能な状態か否かである。現場目線で言えば右腕人材とマネジメント力ということになる。

日経ベンチャー(現・日経トップリーダー)にて成功企業の背景を約50社に渡ってリサーチした結果このような結果に結びついた。しかし必ずしも創業時に右腕人材を確保できるとは限らない。また別な資料によると右腕人材は以外と早期退職してしまうケースもある。このようなことから「社内育成」の必要性を痛感したのである。
しかし創業間もない企業において人材確保は容易ではない。さらに離職率が高く人材投資のリスクは極めて高いのである。選抜段階での目利き力、OJTを含めた育成力が中小企業発展において必要不可欠な能力なのである。

私は特に“育成”に着目をしている。中小規模企業に中途入社希望者は履歴、経験、環境などさまざまである。技術職やキャリア人材を含め一定の基準で選抜後は社内基準やルールに沿って育成することが求められる。しかし過去の経験がバイアスとなり一筋縄ではいなかい。さらには離職経験が多い人は容易に退職を選んでしまうのだ。私の追跡調査では3回を超えると一社あたりの就業期間は極めて短く2年を下回るケースが90%を超えるのである。

企業は人が支える。こうした人材が社内知を習得し創造的業務に携われるようになれば、企業は成長が可能となる。また本人の資質に併せた人材投資へのリスクも減る。良い方向へ回転へと結びつく。

初期のKFSが経営者と社員、社員間“相互を知る”ということだと思う。しかし自らの考えを人に説明するのは意外と難しい。相手の顔つきひとつで言葉が詰まるのが現実だ。もっと言えば自分の考えが纏まっていないことすら多々ある。単純に言えば相互の価値観がわからないのである。相手の暗黙知がわからなければ意思の疎通は難しい。

我々はこうした環境下で組織を運営していることが多々あるのだ。価値観共有をスムーズにする方法をアカデミックに考察していく。

中小企業研究者は多々いるが、産業集積のような場での中小企業勤務経験者どれだけいるのだろうか。また中小従業員とキャリアという側面での研究がいまの時代にもとられているように思う。

 

政権交代の悪夢 (新潮新書)

政権交代は悪夢ではない。いまだ続く現実なのである。感情というのはいい加減なもので自民党政権が優れていたようにさえ思える。白紙委任状を得たかのうな政を誰が予測したのだろう。しかし本書は民主党政権をつぶさに分析しそれを予見していた。昨年9月の尖閣問題は、民主党が持つ危うさの現れであることを読み取ることができる。

民主党の支援団体には「日教組・教職委員組合(29万人)」がある。詳しくは割愛するが、君が代不斉唱、不起立問題、ゆとり教育、北朝鮮親善など多々問題を抱える団体である。高校授業料無料化はインパクトの強い公約である。しかし授業料無償化、教員免許更新制度廃止、学力調査廃止は日教組が求める教育政策なのである。政党が支援団体の意向は加味されマニフェストが作られていると想像される。個別議員の支援団体に職業的左派団体があることも確認ができた。外交問題が起きることは必然だったのだと思われる。

いま竹島問題が加熱している。尖閣や北方領土を含めこの民主党が政権を担うようになってから断続的に領土問題が発生している。この要素にはこうした団体の意向を汲む政治姿勢にある。事実を本書から抜粋してみたい。

鳩山首相(当時役職)  米国グローバリゼーション批判
            最低でも県外(普天間)
小沢幹事長       日米中正三角形論
鳩山首相        東アジア共同体構想
鳩山首相        ガス田開発・急がば回れ
鳩山首相        プリーズ・トラスト・ミー
            作業グループ必要なし(自民石破氏・背信行為と述べる)
小沢幹事長       中国“人類史的パートナー”発言
            習近平「天皇陛下」強行会見
            国会議員143人を含む「626人」大訪中
鳩山首相        抑止力が分った
            全国知事会・領土問題(尖閣)は議論し結論を。
                   石原都知事会議と途中退席・外務省絶句
                   普天間なんて国民は知らなかったでしょう
       仙石          韓国への戦後補償は不十分
       
       これら以外にも相当あると思うが影響がありそうな発言をピックアップしてみた。こう
してみると尖閣問題=「民主党問題」という構図が明らかとなる。この背景には歴史観や概念のあるに違いない。こうした結果が日米安保軽視、中国へのすりよりという結果を招き、領土問題を深刻化させた。理念なき行動が国そのものを危うくする。振り子を戻すことが良いとはあまり思えない。しかし著者の自民党政権へのあらたな形について次のように述べている。

「…農村や業界団体の代表政党であり続けることを思い切ってやめることだ。もっと都市生活者をターゲットとし、最大多数派であるサラリーマンが望む制作をうち出すことではないだろうか。また国民の関心が高まってきた安全保障や危機管理といった分野での強みをアピールすることでも、従来以上に共感を得られるはずだ」

 国としての方向性を描き実行するには一考する価値のある提言だと思う。残された時間はあとわずかのはずである。

 

大臣 増補版 (岩波新書)

昨日丸善本店にて購入。初版から1年以上を経過しているにもかかわらず平積みとなっているのは如何に人々の問題意識が高いかということか。帯には“新総理の政治理念”・“民主党政権がそして私が何を考えているのかぜひお読みいただきたい”とある。震災を割り引いても理念とは程遠いのが現実だ。

随所に「国民主権」という言葉が散りばめられている。意図は「…日本は官僚主権国家なのである。官僚主権を国民主権にするためには、選挙で国民から選ばれた国会議員が政府を運営しなければならない。それが実現できて初めて国民主権の国となる」とある。
果たして“選挙”はそうした機会になっているのか。とてもそうとは思えない。一票の格差の問題は手付かずであり、投票者に対する説明責任とは程遠い。少し先のグランドデザインによって選択をしているとはとても思えない。またポピュリズムな発言により投票行動は大きく変化する。自助自立している人の投票なら良いだろう。しかし自らの生活に影響を及ぼすのであれば流されるのが自然ではないか。こうしたことからも選挙=国民主権は程遠いと感じるのである。

本書は官僚が“悪”でありこれを断ち切れば上手くいくということに終始している。現場は“お手並み拝見”であったろうと思う。これだけ攻撃すれば問題意識を持っていたとしても協力などするはずもない。コラボレーションによるイノベーションの創出などあり得ないというのが実感である。この人のために“がんばろう”という気持ちとは乖離している。すこしでも組織論を勉強すれば悪いリーダーの見本だとわかる。

こうしたことを踏まえいまの政治環境を見ると裏付けが取れる。人それぞれなので多様な角度から読むと良いのではないだろうか

 

官僚の責任  古賀茂明

On 2011年7月25日, in 政治・経済, by admin

官僚の責任 (PHP新書)

著者は過日「日本中枢の崩壊」で紹介した現職官僚である。前作どうよう考えさせられる一冊である。1993年の夏、自民党政権は38年ぶりに下野した。当時どの政治評論家は、日本の政治は実質“官僚が仕切っているので問題ない”と述べていた。著者の論調からその志を読み解くことはできない。政治家と比較してではあるが「日本中枢の崩壊」で私は未だ信頼感を持っていると述べた。政治家が処方箋を描けない以上官僚に信託するほか方法がないからである。

引用しながら現状を少し整理したい。

①  “国民の貯蓄率には現在のところまだ余裕がありそうだが、国と地方を合わせた借金総額は、2011年度には1000兆円を突破する勢い。国民一人当たり、じつに780万円のシャキンを背負っている勘定になり、しかも1990年には60兆円あった税収はいま40兆円。…”
②  “増税によって国民から集めた金で社会保障をまかない、かつ膨大な借金を減らそうと思えば、もはや消費税を30%まで引き上げるしかない。そうなったとしても、我慢強い日本人は過去の遺産を食いつぶしながらも、死に物狂いで頑張ってしまうだろうから、しばらくはそれでなんとかやり過ごしかもしれない。が、やがては力尽き、やってくるのは、歳入の不足で行政が立ち行かなる「政府閉鎖」。IMFが乗り込んできても、財政状態のあまりのむごさにお手上げ状態、日本は滅んでいく…これが、このままいけばいずれは日本がたどる道筋であることは、多くの人間が器具するところだった。

いまのギリシャと同様か。それ以上かもしれない。1000兆円を突破すると約400兆の借金を個人は有しているのでほぼ使いきったことになる。子ども手当や農家戸別補償など夢のような話というのが現実だろう。日銀買上を除いて国際に国内処理が難しくなれば本書の議題にあるような公務員の行末も少しは変わるのだろうか。JALやこれから始まる東電などとは比べ物にならないくらいその処理は難しいだろう。天下り問題は本書に延々と書かれている。しかし年金削減などと言ったらその比ではないだろう。
著者は「官僚は身分制」だという。政治は「家業」だと私は思う。高学歴連鎖するのもどうようだろう。士農工商のゆり戻しのようにも感じる。

 有効な処方箋や提言は本書からも見当たらない。時計の針は戻すことができない。まず経済財政諮問会議などにより叡智を集めることが一歩なのではないか。それを官僚が精緻なプランとし、政治家が責任を負う。小泉型の手法が望ましいように感じてならない。
 本書だけではないが、最近の新刊から楽観的なイメージを汲み取ることはできない。自らを律し、目の前の仕事に励むしか無いのだろうか。

 

アート探索  京都市美術館

On 2011年7月23日, in life Style, by admin

京都市美術館を出張のついでに訪れてみた。都内の車中広告にて“フェメールからのラブレター展”と題した17世紀オランダ絵画に興味を惹かれたからだ。京都駅から約30分バスに揺られると美術館に到着する。平安神宮の隣に位置することから行かれた方も多いかもしれない。神奈川近代美術館といいこうした位置づけにある美術館は多いのだろうか。神奈川近代もそうであったが鑑賞以前に建物に圧倒された。予備知識を持っていなかったことからより衝撃的だった。

 本稿を執するにあたり調べたところ、昭和8年、日本で2番目の大規模美術館とのことだ。威風堂々たる建物と緑地のバランスはなんとも気分が良い。和洋が混沌としている中で何か日本の趣が強調されているように感じる。

さて今回のフェメールからの手紙にはコミュニケーションというコンセプトがある。副題は“17世紀オランダ絵画から読み解く人々のメッセージ”とある。当時の欧州の家族や学校での暖かい人間関係がすごく良く表されていた。ひとは人と関係することによって始めて存在するというごくあたりまえのことが改めて認識させられる。て交わることによって生まれる笑顔が如何に大切かを思い知らされる。孤高を築くこともひとつの生き方ではある。しかしそれは孤高という人間関係を選択したということに他ならない。

期間は10月まである再び訪れてみようかと思っている。

 

未来を予見する「5つの法則」

2冊連続で著者のレビューを試みたい。弁証法について述べた著者の作品をレビューしたことがある。同類ではあるが感銘を受ける。未来は予測などできなくとも予見はできる。その方法が5つの法則だと述べている。まず5つの法則を紹介したい。

「螺旋的プロセス」による発展の法則
「否定の否定」による発展の法則
「量から質への転化」による発展の法則
「対立物の相互浸透」による発展の法則
「矛盾の止場」による発展の法則

こうした弁証法による哲学が未来を予見させると著者は述べる。そもそも予見を広辞苑で紐解くと“事がまだ現れない先に、推察によってその事をしること”とある。実際には“知る”ことなどはできようはずもない。しかし動向、流れを“推察”することは可能かも知れない。私は以前シナリオ・プラニングのワークプレイスにて10年後について議論を重ねたことがある。この手法はシェルが実際の行い戦略を立て成功している。予測ではないものの流れが見え隠れするのだ。この手法はアブダクションではあるが何か結びついているように感じるのだ。

5つの法則をレビューするには少し紙幅が足りない。そこで根底にある弁証法について著者の解説を紹介したい。

「思考は、正、反、合のプロセスを通じて深まっていく。正、反、合 による思考の深化です。すなわち弁証法とは正(テーゼ)反(アンチテーゼ)合(ジンテーゼ)というプロセスで思考を深めていく技法です。
わかりやすく言えば、一人が語った意見(正)に対して、もう一人が、その反対の意見(反)を語り、それぞれの意見にもとづく対話を通じて、二人がともに、二つの意見を抱合し、止場した、さらに深い理解(合)に到達するという技法です」

実にわかりやすい解説だと思う。未来予見は政治、経済、また企業内で日々行われる。また就職など将来を選択する機会にもこうした機会を持つことが望ましい。机上で一人行うにはバイアスが掛かり些か難しい。よって対話をつうじてジンテーゼをめざすことになる。“対話相手”が極めて難しいのである。傾聴可能人物であり発展的考え方をする仲間でないとこうした関係は成立しない。また同レベル以上の知識も必要だろう。こうして弁証法を学ぶ時、こうしたことが常に気がかりである。
今回も著者から数多くの教示を受けた。

 

仕事の思想   田坂広志

On 2011年7月20日, in life Style, 書評, by admin

仕事の思想―なぜ我々は働くのか (PHP文庫)

人生と仕事について十章で構成された一冊。仕事について考えさせられることは多い。その理由は自らが目標に対し怠惰であるから。能力が無くとも行動量は一流でありたいと常に願っている。愚直、内省と考えはするものの行動に帰結していない。出口が見えない日が続く。少しでも風穴を開けたく本書を拝読した。

まず印象深い一節を紹介したい。

「理想家とよばれる人物は、大きな夢を描きその夢を語ります。それも本気で語ります。そして、その夢を実現するために、目の前の現実を変えようとしています。そのために、具体的な目標を設定し、行動計画を立て、それを実行していいきます。その夢に向かって一歩でも近づいていこうとします。
そして何よりも、現実を変えるためにひつような能力を身につけようとします。すなわち理想家と呼ばれる人物は、夢を実現するために変えるべき最も重要な現実が“自分”であることを知っています。目の前企業や市場や社会という現実を変えていくために、真っ先に変えるべきは“自分自身”であることを知っています、ですから“理想家”と呼ばれる人物は自分を変え、成長させていくための努力を惜しみません」

理想家の対象を「夢想家」として次のように述べている。

「…しかし人前で語ることはあまりしません。夢を語ることによって、自分が他人から視線を浴び語った夢に対して責任を負わされることを恐れるからです。そのため、そのときに夢を語るときも,本気で語りません。“そうなればいいな…..”と言った”願望“で語るだけです。…夢を実現するために、目の前の現実と格闘し、それを変えていくという苦しいプロセスよりも”夢を見ている“という心地よい状態を選びます。したがって具体的な目標も、行動計画も生まれてくることはありません。現実と対峙することによって”夢から現実に引き戻させる“ことを恐れるからです。…なぜなら彼がいちばん大切にしているのは”自己幻想“だからです。彼にとっての夢とは小さなエゴが自らを慰めるために道具に過ぎないからです」

この一節を考えさせられるだけでも本書を読んだ意味は深い。誰でも自らの位置から目標を達成するためには自己を変革する必要がある。その程度は夢や目標との乖離による。“変化と継続”から得た位置。その位置からさらなる変化を試みる。そして達成の期限を決めることが必要なのだと痛感する。自己の棚卸しとも準じるが多少なりとも成長すると小さな自己満足を得やすい。これが怠惰であることを失念してしまう。さらには多様な角度から環境は変化する。想定外のことも多い。いつのまにやら追い求めていたことすら忘れかけない。

本書を通じて多くの教示を受けた。“自分自身を変える”再び原点からスタートしたい。

 

山行日誌  北岳チャレンジ

On 2011年7月19日, in life Style, by admin

海の日を使って北岳へチャレンジした。日本で2番目に高い山、雪渓が真夏でも見られるなど人気がある。せせらぎを聞きならの登頂は代えがたいものがある。

天気も良く登頂を遮るものはなにもなかったはずが、突如“動悸”が激しくなってきた。前日の睡眠不足、酒量、最近の体調等々色々なことが思い浮かぶ。こまめに休憩をとりながら進むも激しくなる一方である。いつものパートナーである従兄弟がコース変更を提案。明日の距離を考えると不安を覚えるが無理なら撤退と決めコースを変更した。

変更した小屋からの夕日の美しさは、これで良かったのではないかとさえ思わせる。夕飯で軽くビールに口をつけるものの概ね禁酒。7時には消灯し明日へ備えた。そうかと言って早々に寝られるはずはない。PC、本、携帯電話といった情報から隔離され考えることしか時を過ごすことはできない。しかしこうした時間を日頃過ごすことなどない。贅沢な時間と置き換えることできる。

18日

 4時半起床、5時登頂、8時半山頂の予定でスタートした。十分な睡眠で約1000㍍を登る予定。しかし復調には程遠かった。心に足と息が着いていかない。半分を経過した当たりで撤退の提案がなされる。幾つかの条件が提示され登頂を続けた。なにを考えながら登ったのかも覚えていない。

なんとか登頂に成功!コースタイムは大幅にオーバーをしたものの辛うじて目標は達成できた。山頂は幾分雲に覆われていたが要所でみられる甲斐駒、鳳凰三山、八ヶ岳にチャレンジ精神が宿る。生活習慣を変えバージョンアップを図る予定だ。

 

 新・堕落論―我欲と天罰 (新潮新書 426)

著者の思いが詰まった一冊。震災において「天罰」を口にし、錚々たる非難を浴びた。この背景に国家の不安があったことは言うまでもない。この発言ついては早々に現地へと出向詫びたのだが、現地の人々に受け入れられることはなかったと思う。「この出来事に国家全体、国民全体で向かい合い、国民の一人一人がこれらかの人生の事柄としてしっかりと受け止めなければと思う」という心は伝わらなかった。残念でならない。

 こうした「思い」が生まれる背景には繰り返される「我欲」に包まれた日本人への不信と不安にある。政治に携わらない我々は日々の政に不信はあろうとも目の前の執務を淡々と行う他ない。日常で政についての対話をしてもそれが何かに結びつくこともない。しかしこの数年“他力を望む”言葉を聞くことが多い。中高年からは「北欧のような幸福祉国家」若者からは「福祉国家」が望ましいのではないかということだ。現状を踏まえればあろうはずもない。こうしたなかで共通しているのは「自らの現状と政治」を結びつけるのである。彼らの現状は政治でなく経済環境なのだが、まず足るを知るべきだ。経済がよくなっても同類は多く彼らがよくなるとは思えない。 夢想にすぎず、すべてが“他力本願”なのである。

 こうした現状を著者はつぎのように言い表す。「現代の多くの日本人の人生、生活を占めているのは物心的な物欲、金銭欲でしかない。それは衝動的な、人間として薄っぺらな感情でしかない。そして日本の今の政治はひたすらそれに媚びるしかない。それもまた政治家としての堕落に他ならない。ポピュリズムなどという外国語をもってしても、それは卑屈な姿勢ということだ。そうした堕落の構造の中では国家は、周りからの軽悔の内に徒に衰微していくのです。我々は今その大きな渦の中のいるのです」

 こうした欲を適えるがためになにも感じることなく安易な手法を使う。昨今を見れば“欲”すらない人間が多いことに気付く。バーチャルな世界で遊ぶことと欲がそのまま結びつくわけではないだろうが不安を覚える。結果として草食系などという言葉生まれ社会から認知?される。個性ということで終えて良いのだろうか。安寧とした社会が未来永劫続けば良い。しかし安寧が続くように我々は努力する必要あるのではないだろうか。

「明治の先覚者福沢諭吉はいみじくも説いています。“立国は公にあらず。私なり。独立の心亡き者、国を思うこと、親切ならず”と。国家と国民個々の関わりの原理について、これほど明快に説いた言葉があるでしょうか。国が衰え傾くということは、私の、私達の人生が衰え傾くということです。それを願わぬなら、国と表裏一体の己のためにこそ、国について想い、考えなくてはならないのです。国を変えていくために、今自分がどう変わらなくてはならぬのかを。この国をここまで堕落させ衰えさせた自分の我欲を、どう統制し抑制し、己の人生の中で真になにを望んでいくべきかを、それぞれが考えるべきなのです」

国、社会、家族、自己という関係のなかで自らを考えること。利他の心を持って生きることがまず自分にできることなのだろうか。