新・堕落論―我欲と天罰 (新潮新書 426)

著者の思いが詰まった一冊。震災において「天罰」を口にし、錚々たる非難を浴びた。この背景に国家の不安があったことは言うまでもない。この発言ついては早々に現地へと出向詫びたのだが、現地の人々に受け入れられることはなかったと思う。「この出来事に国家全体、国民全体で向かい合い、国民の一人一人がこれらかの人生の事柄としてしっかりと受け止めなければと思う」という心は伝わらなかった。残念でならない。

 こうした「思い」が生まれる背景には繰り返される「我欲」に包まれた日本人への不信と不安にある。政治に携わらない我々は日々の政に不信はあろうとも目の前の執務を淡々と行う他ない。日常で政についての対話をしてもそれが何かに結びつくこともない。しかしこの数年“他力を望む”言葉を聞くことが多い。中高年からは「北欧のような幸福祉国家」若者からは「福祉国家」が望ましいのではないかということだ。現状を踏まえればあろうはずもない。こうしたなかで共通しているのは「自らの現状と政治」を結びつけるのである。彼らの現状は政治でなく経済環境なのだが、まず足るを知るべきだ。経済がよくなっても同類は多く彼らがよくなるとは思えない。 夢想にすぎず、すべてが“他力本願”なのである。

 こうした現状を著者はつぎのように言い表す。「現代の多くの日本人の人生、生活を占めているのは物心的な物欲、金銭欲でしかない。それは衝動的な、人間として薄っぺらな感情でしかない。そして日本の今の政治はひたすらそれに媚びるしかない。それもまた政治家としての堕落に他ならない。ポピュリズムなどという外国語をもってしても、それは卑屈な姿勢ということだ。そうした堕落の構造の中では国家は、周りからの軽悔の内に徒に衰微していくのです。我々は今その大きな渦の中のいるのです」

 こうした欲を適えるがためになにも感じることなく安易な手法を使う。昨今を見れば“欲”すらない人間が多いことに気付く。バーチャルな世界で遊ぶことと欲がそのまま結びつくわけではないだろうが不安を覚える。結果として草食系などという言葉生まれ社会から認知?される。個性ということで終えて良いのだろうか。安寧とした社会が未来永劫続けば良い。しかし安寧が続くように我々は努力する必要あるのではないだろうか。

「明治の先覚者福沢諭吉はいみじくも説いています。“立国は公にあらず。私なり。独立の心亡き者、国を思うこと、親切ならず”と。国家と国民個々の関わりの原理について、これほど明快に説いた言葉があるでしょうか。国が衰え傾くということは、私の、私達の人生が衰え傾くということです。それを願わぬなら、国と表裏一体の己のためにこそ、国について想い、考えなくてはならないのです。国を変えていくために、今自分がどう変わらなくてはならぬのかを。この国をここまで堕落させ衰えさせた自分の我欲を、どう統制し抑制し、己の人生の中で真になにを望んでいくべきかを、それぞれが考えるべきなのです」

国、社会、家族、自己という関係のなかで自らを考えること。利他の心を持って生きることがまず自分にできることなのだろうか。

 

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