先般政治について議論をする機会があり日頃の雑感をメモにする機会があった。
2大政党制や多党制の賛否でなく選挙権者である我々に求められることは何か。
そのために政治が何をすべきかについてメモを書いてみた。

政治家とは理想とする国のありかたを示す義務がある。時間軸は各々違うがリア
リティを持って語れなければならない。

昨今の政治がポピュリズムという思いは普遍的だと捉えている。その要因はボト
ムアップ型目標設定にあるのではないか。マニュフェストと称した目標は長期的
国家ビジョンとは程遠い。困ったことに国政選挙の状況遺憾では方向性すら変わ
るのである。本稿はボトムアップを否定するものではない。しかし多数が情報量
知識、論理的思考が満足し得るものだとは考えづらい。結果として政治と近い距
離の声がボトムアップされる。この結果はこれまでの選挙で明らかだろう。今後
は選挙権者の年齢構成比率が一層偏り、産業構造は転換する。ことからこうした
傾向は強まることが予測される。しかしこれでは問題を悪化させる一方であり先
延ばしすらかなわない。

このような事から政治家が行うべきことは次のように考える。まず政治は、国民
が判断可能な情報を与えることである。次に俯瞰した長期的考察が可能な人材教
育を施すべきである。3つ目に現実を見極め一定限度問題解決可能な能力の育成
である。こうした要素が保持していなければ将来を見据えた判断選択はできない
のである。実行が疑われるマニュフェストに酔いしれた選挙に意味的価値を感じ
ることはできない。

そのうえで国民も後世に選択責任を果たせるのではないか。

 

山行日誌  硫黄岳 (3)

On 2011年2月14日, in life Style, by admin

アイゼンを頼りに登るが山頂へ出るには“岩”を超えなければならない。秋に行ったときも【コワゴワ】進んだ岩である。大きな岩を、両手を使って超えていく。そのつかむ岩が雪に覆われている。何とか進んだのだが途中ルートを誤った。本来岩を巻いて進むのを岩の上へ出てしまった。もう前に進むことはできない。方向転換も困難であった。バディは致し方なく岩を飛び降りる。結果として2番目に飛び降りることになる。高さは2メートルを超える。着地時に転ぶことはピッケルが飾りでは無くなるということだ。怖がるのもみっともない。意を決し何となんとか飛び降りた。
ここが最後の難所となり頂上へ到着。秋に見た硫黄岳のティラミスは全く見えない。穂高も赤岳も何もかも。

そもそも見ている余裕などといのが本音である。ケルンに“タッチ”し下山となる。

 私が後ろを歩きながら稜線を降り始める。なにやら右へずれる。このとき彼の眼鏡が曇り、前が見えなくなっていたのだ。曇ではない。眼鏡が凍っているのである。あのとき声が聞こえて良かったとつくづく思う。何とか樹林帯の入口までたどり着いた。これから4時間以上の下山が続くのだが安堵感で心は溢れている。しかし樹林帯下山しながら何度も躓く。足が疲れている証だ。鍛えなければと思いながらも足早に下山した。

 出立した赤岳鉱泉に着き時計を確認した。不思議なことにオーバータイムではなかった。十分想定の範囲内であった。休憩は取ったものの途中足を止めなかったことが幸いしたかのか。ここで朝入れてお湯を初めて口にした。マイナス10℃を越えていることもあり一揆に下山することとした。

 こうなるとおかしなもので“もう下山するのか”という寂し気分になる。すでにあの稜線の悲劇を失念しているかのうようだ。互いにそんな気分なのか。もしかすると明日からの仕事を思い出しているのかもしれない。雑談もそこそこに2時間程歩いた。コースタイムより相当早くバス停に到着した。バス停の脇にある山小屋に温泉がある。バスの時間まで1時間程あるので冷え切った体を温泉で温め帰路に着くこととした。

 ここで左手の指先と足の指がなにやらしびれていることに気づいた。温めれば治るかと思ったが今日現在も完治していない。ネットで調べたのだがどうやら凍傷らしい。バディは足の爪を切ったら親指の爪が割れたらしい。これも凍傷なのだろうか。そんな戦いのような山行であったが次回の予定を組ながらあずさに乗り帰宅した。

 思い出深い山行であることは間違いない。

 

山行日誌   硫黄岳 (2)

On 2011年2月12日, in life Style, by admin

朝食は午前6時半。事前にあらかた用意を済ませ7時出立を予定していた。途中夜中に幾度も目が覚める。こうしたことも慣れたもの。あまり気にもせずひたすら目を瞑る。せっかくだから何か考えるかと思い雑感に浸る。だが結論はでず同じようなことを考え続ける。そうこうしていると頻繁にトイレに人が立つようになる。

そうこうしていると時は【夜明け前】となる。

 我々もパッキングなど行動開始である。準備を整え食堂に向かう。すでに食事を取っているグループなどもいる。メニューは ごはん 焼き魚 温泉玉子 サラダ フルーツ 梅干し 焼きのり みそ汁である。味噌汁と
ご飯はおかわり可能。大量に炊くことからかご飯は上手い。自己判断は二日酔いではない。しかしお茶を繰り返し飲む。判定は誤りだったのかも知れない。そしてそれはまもなく証明される。

 そうそうに準備を済ませアイゼン装着し、ピッケル片手に出立である。ピッケルが飾りであることを願う。
樹林帯を約2時間登り稜線へでる。秋にも今回稜線入口となる赤岩の頭に、オーレーン小屋から登っている。少しは山行になるかと思ったのだが甘かった。斜度がそこそこあることからすぐに疲労感でいっぱいとなった。確かにアイゼンを付けているから足は重い。この原因は“二日酔い”そんなはずはない。繰り返し考えていたのだが早々に考えることができなくなった。
 
 とにかく息を整えバディに迷惑を掛けないよう歩みつづけるしかない。通常時間1回程度の休憩が40分に一度となり、稜線につくまで3回も休憩を取ってしまった。稜線で取ることを考えれば1度ですませなければならない。今日下山ができるか否かが気になり始めた。最悪は赤岳の下あたりの小屋泊かと。そう思いつつ歩みを進め少しずつ森林限界が近づく。雪のかかる低木の松が目立ち始めた。休憩は取らず凍ったペットボトルにかすかに残る水を飲みながら稜線向かった。時間にすると20分程になるのだろうか。稜線へ出た。

苦しい思いをしてたどり着いた稜線は“強烈な風と雪”で迎えてくれた。ドラマに出るような地吹雪、数メートルの視界もう稜線で休憩どころではない。山頂へ向かうことに危険を感じた。先行して登ったグループは、山頂を目指さないらしい。しかし我々は一路硫黄岳山頂を目指すことに。

ピッケルが飾りであることを願っていた。しかし使用する可能性を捨てきれない。体感温度はマイナス15℃。
もちものはすべて凍っている。タオルやバッグ、鼻も眉毛もすべてである。そんな中、互いの距離を開けずとにかく進む。途中幾度も距離を開けないように注意を受ける。当然のことなのである。しかし速度についていくことができない。それでも何とか前に進む。

 バディの【アイゼンを信じていきましょう】という言葉にやはり“そんな状況だよな”と思いつつ氷にアイゼンを効かせて一歩々々あゆみを進めた。
 
つづく

 

山行日誌   硫黄岳 (1)

On 2011年2月10日, in life Style, by admin

1月29日、30日と冬の八ヶ岳に山行した。昨年残雪は多少経験したものの本格的な雪山は初陣となる。
初日は宿泊先の赤岳鉱泉まで約4時間。翌日は硫黄岳山頂を目指し下山を含め約7時間半。バディはいつもの従兄弟・三枝氏である。

 中央本線 茅野から30分程車を走らすと登山口となる。天候は多少雲がかっているものの雪は降っていない。緩やかな上りが続く。アイゼンの必要性は感じ無かったが直前に購入したアイゼンであることから足ならしのため装着した。

 雪山の装備をしていることからあまり寒さは感じ無い。しかし実際はペットボトルの水が凍る程寒いのだ。
そんな寒さは実に風景を美しくしてくれる。途中幾度か渡る川は雪と氷の間を水が流れる。水は寒さに負けないかのごとく流れていく。こうした風景と一体化したとき“山はいいなあ・来て良かった”と心から思う。しかし翌日の厳しい風雪を少しでも予測したならその感じ方は違ったものになったに違いない。

3時間も歩いたときだろうか。巨大な氷の塊が出没した。あまりにも美しい水色だったことから一瞬パネルかと疑った。しかしどうやらネットなどに水と雪が固まってできあがるようだ。またここで来てよかったなと感慨し先へと進んだ。

そうするとまた突如巨大な氷の塊に出会う。今度は先ほどよりはるかに大きい。その塊をピッケルとアイゼンで登っている人がいる。それはアイスクライミングの練習所だったのである。どうやら横岳あたりでクライミングをするらしい。この練習所の上が本日の宿【赤岳鉱泉】である。

荷物をおろしアイゼンを外す。入り口にある温度計を見るとマイナス10℃。防寒のウエアー凄さに驚く。

チェックインとは程遠い手続きを済ませ中へ入る。登山靴を脱ぐこの瞬間が好きだ。締め付けられたものを外すのは気持ちが良い。部屋は30畳以上あろうかと思われる。両サイドに2段棚で仕切られたベッドがある。棚の上にふとんを引いて寝る。それ以外は床に直接引くことになる。どちらが良いか?夜中のトイレで踏まれないことを考えると両サイドのベッドの方が良い。早めに到着したことから壁側下段のベストポジションを確保できた。しかし部屋の中には暖房もなく寒い。アンダーウエアー、フリース、ダウンを来てなんとか過ごせる。

時間はまだ3時を回ったばかりである。何もやることがなくなり“ゆっくり酒でも”ということになった。焼酎のボトルを購入しお湯割りで飲むことにした。山の話はもちろん、家族のことや政治経済など雑談に花が咲いた。夕食前にボトルが無くなった。酔いも回ってきたのだから夕食まで一眠りしても良かったはずだ。いや酔いが回ったから“持参したシングルモルト”を飲み始めてしまった。

夕飯はどうやら名物らしいステーキである。ご飯やスープな美味しく頂けた。こうした環境の中でうまい食事が食べられる。小屋の従業員の方々に感謝を申し上げたい。

山小屋の夜は早い。9時には消灯となる。しかし我々は酒が周り夕食後早々と寝ることになった。

次回へつづく。

 

 

実録 政治vs.特捜検察 (文春新書)

本書は3部構成になっている。まず地検特捜部の取り調べの様子、次に現在公判中の石川知宏衆議院議員と元特捜部副部長で現在弁護士の若狭氏との対談、最後に議員秘書についてである。本稿では地検特捜部と著者についてレビューしたいと思う。

 元大阪地検特、捜部 森功氏の事件、村木さん無罪判決、小沢元代表の事件など最近なにかと着目を浴びる東京地検特捜部である。

著者はまず“調書の問題”を取り上げている。密室で検察官、検察事務官、被疑者の間で取調べが行われることが問題であると新聞などで良く取り上げられる。被疑者は身柄を拘束されている、在宅であっても長時間の取調べが続き精神的負担が大きく事実でないことも署名させられると言われている。こうした取調べも問題ではある。しかし問題は“裁判官の証拠採用”ではないだろうか。密室、将来への不安、周囲への影響など強い精神負担があるなかで正常な判断はできるはずはない。そこで記され、検察が有利と判断し提出された調書がすべて証拠採用されるのは、どう考えても不自然に感じてならない。本書でも金庫の使徒や場所など明らかに不自然なロジックを弁護士が追求しても判決に影響がでないと述べている。憶測に過ぎないが“判検交流”と称した裁判官と検察の人事交流などにも問題があるのではないか。
録画など制度を変えることは難しい。裁判官が調書の扱いを変えることで問題は整理されるように思う。

本件の場合は概ね事実のようである。しかし小沢元代表のケースは問題性を感じてならない。少し関連して感想を述べたい。

最近石川議員らの裁判が始まり全体が明らかになりつつある。被告は調書を否定している。その理由も女性秘書が長時間に渡り拘束され致し方なく署名したという。本書でも同様の問題は取り上げられている。目的達成のために手段を講じていると感じてならない。
このケースは2次的な問題が発生した。小沢元代表の“強制起訴”である。そもそも小沢元代表の起訴、公判の維持が困難と検察は判断した。それを素人検事は“強制起訴”という扱いをした。ここでは強制起訴の制度問題を問うものではない。
その後の政党の有り方である。検察は“立証困難”不起訴とした。それを素人検事の“起訴”した。それがなぜ党内で処分される必要があるのだろうか。プロの検察判断より3人の素人判断が優先されるのだろうか。そもそも嫌疑が問題ならば“2009年5月に代表を辞任し衆議院選挙で大勝、幹事長に就任”が問題なのではないか。
いまさらこれが要因で“支持率”が下がるのであればもとの支持率が問題なのではないか。

メディアは3流週刊誌のようにセンセーショナルに情報を流す。すべての人が判断選択可能だとは限らない。
このことが重要なのではないか。

 

多読術   松岡 正剛

On 2011年2月7日, in life Style, 書評, 雑感, by admin

多読術 (ちくまプリマー新書)

読書家また執筆家として著名な著者である。また昨年丸の内OAZに鳩山元総理を案内し丸善で図書を推薦していた。そんな知識人である著者が『読書法』について述べた一冊である。著者の本はとかく難しくなりやすいしかし本書は理解しやすい対談形式をとっている。

本をどう読み自らの糧にするかは難しい。奥深いが効率的に行いたい。知識や情報の習得だけでは価値は半減する。“既存の知と組み合わせコンセプトを創出する”ことが求められるのではないか。酒造りでいう“醗酵”がなされてはじめて自らの“知”へと結びつく。著者の語る『編集』は私の考える『醗酵』に近いのかと思っている。少し著者の言葉を引用して見る。

『読者は著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、一種のコラボレーションなんです。ぼくがよく使っている編集工学の用語で言えば、読者は「自己編集」であって、かつ「相互編集」なのです。…「読む」という行為はかなり重大な認知行為なんです。それは単立した行為ではないんです。複合認知です。表面的には文字や意味を追うわけですが、そこにはいろいろなことがまじっている。たとえば「声」もまじっているし、文字の「形」もまじっている。むろん文法も語法も、イメージもメタファーもそして社会観や整理感覚もまじっている。「読む」というのはそういういろいろなものを自分と一緒に感じることなんです」

読む行為が「コラボレーション」というのは実におもしろい考え方だ。本を媒体として共に創造するということになるだろ。著者を前に質疑しディベートする機会は幾度かあった。共有の「BA」でなくとも創造が可能ということに結びつく。そこには対話という知的生産行為はない。しかし活字を通じて“共創”はなされる。そことで得られた新たな“創造的知”は読者が寡占するという知的行為なのだ。
こんな解釈のまま進むと次のことが考えられる。まず“倫理観”が重要である。美徳の意識がなければ創造などかなうはずはない。次に多読で求められるような“知識”である。深く広範囲な知が著者の知を端緒として限りなく広い創造を可能にする。最後に【BA】である。BAの共有によりなされる【対話】が知を更に広げると考えられる。もとめられるのは知のディプシリンと言っても良いだろう

知的生活の端緒を与えてくれる良書である。

 

ユーロ連鎖不況 (PHP新書)

ネーミングで買った本。大当たりだった。EU財務問題の論述かと想定したがEUを題材とした日本の財政問題が主であった。財政や国会などを題材とした書籍を取り上げてきた。本書は【日本財政はトリプルB】だと述べている。

先般S&Pは“ダブルAマイナス”だったと思い出されるかたも多いと思う。著者のトリプルBは定量分析の結果に限った判断ということである。著者はBNPパリバ証券クレジット調査部長でもあり他の資料からも、私は信頼感が持てると判断した。世界を騒がせたギリシャがBBマイナスであるからそれ以下ということになる。これに識字率や過去の実績、増税余地など定性化情報を加え現在の成績となっている。定量化情報とは“決算と同様”である。ようするに相当ひどい決算ということだ。

こうした決算の企業に果たして金融機関は融資をする要因だろうか、また市場でファイナンスは可能なのだろうか。腹立たしい気分にすらなる。ゆうちょ銀行は80%を国債で運用しているという。またゆうちょ銀行にGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人:厚生年金、国民年金の運用団体)の運用分を足すと46%となり金融機関の約半分は国らしき団体が保有しているということになる。ゆうちょ銀行は“2000万を上限とすべき”という発言の本音はここにあるのだろう。BIS規制の影響力を受ける金融機関も資産対し20%~25%の保有をしている。評価が下がれば自己資本比率が下がることは容易に予測される。その時は果たしてどこが引き受け可能なのだろうか。中央銀行以外に考えづらい。

著者はEUスペインのケースを次のように述べている。「ユーロという共通通貨を使い彼らは、それぞれの国の中央銀行の上にECBという元締めがいることから金融政策も自由ではありません。では何ができるかというと財政政策ぐらいしかないのです。自国の問題を調整弁として財政政策しかいないという現実に対し、膨れ上がった財政赤字を総合的に判断すれば、やはり問題して聞けし難しいだろうスペインが売られるだろうというのがヘッジファンドの考えです」

売られるというスペインのS&P評価は日本より格上である。また中央銀行の戦略が与える影響が大きいことは少し以前のことではないだろうか。バーナンキ米連邦準備制度理事会(FRB)議長は以前のエコノミストに中央銀行の“限界”について論じている。違いはあるかも知れないがEUに限ったことではないと私は思う。日本に限って言えば“最後の出資者”と“モラルハザード”のバランスをいかに取るかの責任も増すように思える。

ここまで日本の国債評価と処理、またEUスペインとの比較を著者の論述をもとに簡単に行なった。あきらかなことは“国会、政治のプライオリティがあまりにもひどい”といことである。我々はどうすべきか。真摯に考えるときがきていることに間違いない。
日本の現実を知る一冊である。

 

日本の国会――審議する立法府へ (岩波新書)

財政、希望が無い社会など日本は数多くの問題を抱えている。日々メディアで耳目しない日はない。単純に政治問題に転化すればそれは思考停止となる。しかし“政治力”が影響を及ぼしていることも事実である。選挙に当選し代議士となる人物の知能レベルが低いなどとは考えづらい。2代目など避難する言葉もあるが立派な経歴を有していることのほうが圧倒的に多い。選挙に勝ち抜くのであるからメンタルが主たる要因ではないだろう。“なぜ上手くいかないのか”こんなことを問題意識として持っていた。安倍総理のもとで行われた参議院選挙は自民党が惨敗をした。このとき“政治システム”の問題ではないかと端緒を得た。その後選挙を重ね民主政権ねじれ国会の状況にある。は2院政についてイギリスやフランスの事例を取入れた解説、戦後の国会体制、国会というものの考察を論じている。

公共事業を含めた“政治で糧を得ている人”は都心部を覗くとかなり多い。また飲食店などへの影響も大きい。私の住む市内にエリアに“リニア駅誘致”という話があるらしい。しかし東京駅や羽田などに直通の乗り物
はない。公共事業なので20~30年先を見る必要あるのだろう。しかしそうした視点でこれまで計画がなされて来たとはとても考えづらい。駅前はマンションが乱立しているということは収益を生む事業がなされないとうことなのである。こうしたことにも政治は関与し“政治と生活”を結びつけ当落に影響を及ぼす。選挙は国政選挙だけで6年間に3回、地方や首長、党内などを合わせると6年に10回を超える。これでは自らの失業対策が優先されてしまうのも致し方ないように思える。ようするに“能力が発揮できないシステム”になっているのではないか。

 2院政や一票の格差の問題、地方議会の有り方など政治に携わる人の問題意識は高いと思われる。しかし問題は先延ばしされる。実際の改定は憲法問題などもあり難しいことは多々ある。しかしこうしたことを乗り越え議論を重ねる必要がある。

次回本書に基づき論を進めたい。

 


お金の流れが変わった! (PHP新書)

新書であるが中身が濃いのでエリア分類しながら考察を深めたい。

 中国の成長を目にしない日はない。普遍化しつつあり普通の動きなのであろうが「車用鋼板の海外生産倍増・13年国内抜く 高級品の需要拡大」(1/27 日経)の記事には「ついに来たか」という思いがつのる。鉄鋼各社は、国内工場は老骨化設備の閉鎖も検討されており地方経済の打撃は大きいだろう。製造業は加速的に「海外移転」することになる。移転先は中国を始めとしたBRICsなどとの合弁企業が主流であろう。

 EUや米国などの景気はあまり芳しくない。よって中国は内需比率を上げている。高速道路や新幹線などのフルスピードの開発状況はメディアなので見聞きする。経常黒字国家とはいうもののどんな【仕掛け】があるのかと常々考えていた。本書はその答えの一つを教示してくれたのである。

「中国では土地の私有が認められておらず、すべて国有地、つまり共産党の所有である点も、経済政策をやりやすくしていると言っていい。もっとはっきりいうと、ある場所に道路や鉄道をつくろうと思い立ったら、代替地は用意するにしても、なんの苦労もなしに土地を取り上げることができるのだ。
 そのスピードは、日本のような民主主義国家とはくらべものにならず、農地だろうが政府の一存ですぐに商業地に転用できてしまう。そうすると土地に値段は何倍にも上がり、それを民間企業に貸し出せば、政府は苦もなくインフラ整備の費用を捻出できるのだ。まさに「打ち出の小槌」を持っているようなものなのだ。」
また「中国ではこの収奪した土地の差益が税収を上回っており、これが増税なき社会・産業基盤の構築に回っている。増税や国際で公共投資を普通の国とは際立った違いだ。土地バブルはこうした政府の「隠れた収入」を増加させるので、為政者の多くが痛痒を感じ無い危険な仕掛け(麻薬)になっているのだ」とも述べている。

この【仕掛け】はすごい。日本でも政治家の情報により先回りした土地の買い占など噂は聞いたことがある。しかしこの国は国家規模での地上げ、売却益、更に運用益もついてまわるだろう。またこうした計画経済モデルをミャンマーなどへ輸出しているのだ。著者は“資本主義は富を産み出すが、その富が人々に一様に行き渡ることはない。富は偏在するというのが、産業革命以来変わらぬ資本主義の姿なのである”と述べている。これはまさに“真実”である。富を有する片方の偏在者は行政府と極めて近い一部のものに過ぎないと思われる。政治を司る人にとっては、民主主義より好都合であることに疑いない。そのうえで“いつかなれるかも知れない”という希望を持たせておくことが社会を安定させるのだろう。
 
 しかしこの仕掛の継続は当然のことながら“情報閉鎖”と“投資価値”という2軸が必要となる。リーマンショクで悪者扱いされた米国連邦準備理事会 元議長 グリースパンが「謎と読んだ金利上昇なき安定成長は、中国の低賃金によるディスインフレがもたらした。中国で農村から都市への労働移動率がピークを超えればインフレ圧力が顕在化するとも予言していた」2011/1/25日経は述べている。現在インフレは加熱し始めている。情報閉鎖はすでに数万人単位でwebをチェックしている。この現実は“異常”としか言いようがない。更に成長を支える「生産年齢人口」はあと5年でピークアウトを迎える。こうしたことは“瓦解の可能性”を秘めるのではないか。

  “弱い内需”と“強い外需”というアンバランをではあった。しかし95年以前であれば公共投資などによりバランスを保つことができた。また外需は米国やEUであった。これからの外需は中国を始めとした新興国需要なのである。この新興国の不安定性は“アジア通貨危機”などで明らかとなっている。

 TPPや消費税増税などさえ未だ前進しない。ともてイギリスをモデルとした国家体制であるとは感じ得ないのである。接する人々からは未だ危機感を感じ無いのもまた現実である。就職を控える子供を持つ身ではある。しかしいまある現実は過去の自己の反映なのだ。例えば人の評価は国内でなくグローバルな視点で評価がなされる。クリエィティブになれば一層その傾向は強まるのである。1993年からこの現状は始まっている。これが通常だという認識を持つべきだろう。

政治システムや債務が問題であることはいうまでもない。S&Pの格下げも大きな問題である。また“新興国の変異”が我々に与える影響も計り知れない。いかに“生き残るか”を真剣に考える時がきている。それに対してBRICsは次にような行動に出ている。

「 IMFが発行したSDR(特別引出権)に強い興味を示したのが中国。外貨準備高のドル偏重を是正するチャンスと考えたのか、すぐに五兆円引受を発表。さらにロシアやブラジルもそれぞれ一兆円ずつ引き受けたからIMFの手元には七兆円が集まった。いわばこの動きは、ドルに変わる新しい通貨誕生の可能性を模索するものだったと言えるだろう。なにしろBRICs四カ国のうち中国、ロシア、ブラジルが米ドル債権よりもSDRを選んだのだ」

不安定要素を抱えながら前向きなBRICsとTPP協議に参加すらできない日本。この違いが10年後どうでるのだろうか。

 

モレスキン 「伝説のノート」活用術~記録・発想・個性を刺激する75の使い方

 お気に入りのステーショナリーグッズは実に気分がよい。モレスキンを使いはじめて2年ほどになる。モレスキンはノートとしては割高である。しかし使い勝手、量などを考慮すると元は十分にとれる。本書はそんな私お気に入り「モレスキー」の活用書だ。

 本書で紹介されている“使い方 その①”などを説明してもお使い出ない方にはあまり価値はないかと思う。しかし“メモ”が重要であることは共通事項ではないだろうか。本書はメモについて梅棹忠夫教授 「発見の手帳」を引用し次のように述べている。
「興味をひいたことを片っ端から書いていくことで毎日の知的活動が紙の上に蓄積され、蓄積された発見はされに新しい発見を生み出してくれます。一見無駄に見える情報を記録しなくてはいけないのは、あとでどんな関連性が見出されるかわからないからです」

記録することにより、クラスターの発見やリレィションの気づきを創出する。失念防止や、単純な記録ではない。メモは知を創造する道具なのだ。著者はこうした“蓄積が価値を生み出す”と強調して論じている。知は“何らかの準備”があって初めて創出される。準備をしていることが大切なのだ。これは“偶然ではない”ということを意味している。“出来る人”の準備は“ここまでやるのか!”と驚かせる。これが秘訣なのだろう。アテネ五輪金メダリスト・野口みずきが“走った距離は裏切らない”という言葉はあまりにも有名である。梅棹忠夫氏の“片っ端から書く”も心は一緒ではないだろうか。

蓄積の価値はネガティブからの脱出にも貢献度が高い。科学的な論拠なので引用する。

「痛手が訪れたときも自分のノートに書き留めます。それが、そうした痛手から立ち直る早道だということが知られているからです。「その科学が成功を決める」という本の中で著者リチャード・ワイズマンは、つらい出来事を他人に打ち明けるよりも、言葉にして書くほうが痛みに耐えやすく、心を癒す効果があるという心理学の研究結果を紹介しています」

“第三者のような視点で書くことで客観化される”その効果を述べている。私それに加えビジュアル化することで問題の根源を見出すことを可能にすると思う。いわゆる“紙に落とす”のファーストステップとも言える。

MOLESKINE モレスキン ルールドノートブック・横罫・ラージ

こうした価値があることを人は知っている。しかし意外に実行している人は少ない。その理由の一つにノートの使い勝手がある。モレスキンは表紙がしっかりとしている。電車で立ったままメモが取れる。実際にそれを可能にするステーショナリーに出会ったことはない。

“実践的メモ”を可能にするグッズである。