多読術   松岡 正剛

On 2011年2月7日, in life Style, 書評, 雑感, by admin

多読術 (ちくまプリマー新書)

読書家また執筆家として著名な著者である。また昨年丸の内OAZに鳩山元総理を案内し丸善で図書を推薦していた。そんな知識人である著者が『読書法』について述べた一冊である。著者の本はとかく難しくなりやすいしかし本書は理解しやすい対談形式をとっている。

本をどう読み自らの糧にするかは難しい。奥深いが効率的に行いたい。知識や情報の習得だけでは価値は半減する。“既存の知と組み合わせコンセプトを創出する”ことが求められるのではないか。酒造りでいう“醗酵”がなされてはじめて自らの“知”へと結びつく。著者の語る『編集』は私の考える『醗酵』に近いのかと思っている。少し著者の言葉を引用して見る。

『読者は著者が書いたことを理解するためだけにあるのではなく、一種のコラボレーションなんです。ぼくがよく使っている編集工学の用語で言えば、読者は「自己編集」であって、かつ「相互編集」なのです。…「読む」という行為はかなり重大な認知行為なんです。それは単立した行為ではないんです。複合認知です。表面的には文字や意味を追うわけですが、そこにはいろいろなことがまじっている。たとえば「声」もまじっているし、文字の「形」もまじっている。むろん文法も語法も、イメージもメタファーもそして社会観や整理感覚もまじっている。「読む」というのはそういういろいろなものを自分と一緒に感じることなんです」

読む行為が「コラボレーション」というのは実におもしろい考え方だ。本を媒体として共に創造するということになるだろ。著者を前に質疑しディベートする機会は幾度かあった。共有の「BA」でなくとも創造が可能ということに結びつく。そこには対話という知的生産行為はない。しかし活字を通じて“共創”はなされる。そことで得られた新たな“創造的知”は読者が寡占するという知的行為なのだ。
こんな解釈のまま進むと次のことが考えられる。まず“倫理観”が重要である。美徳の意識がなければ創造などかなうはずはない。次に多読で求められるような“知識”である。深く広範囲な知が著者の知を端緒として限りなく広い創造を可能にする。最後に【BA】である。BAの共有によりなされる【対話】が知を更に広げると考えられる。もとめられるのは知のディプシリンと言っても良いだろう

知的生活の端緒を与えてくれる良書である。

 

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