官僚制批判の論理と心理 - デモクラシーの友と敵 (2011-09-25T00:00:00.000)

本書はマックス・ウェーバーを始めとした政治思想にフォーカスをあて、現在政治の関連を議論したものだ。些か内容が難しい。回を重ねるごとに新たな気づきを得るのだと思う。そうしたことを踏まえレビューすることをお許し頂きたい。

政治家は官僚を一方的に批判する。しかし現職官僚はそれに対して口を噤んでいる。執行者であるからだろうが公開の場で議論を聞いて見たいものだ。“官僚を上手く使う”というが実は官僚が政治家を上手く使えなくなったのではないか。もしくはそれに足りる政治家がいなくなったのかも知れない。政治主導というが外交、防衛という国家の根幹における情報は官僚が握っている。実際担当する政治家が外交、防衛に極めて長け、長期的な担当で無い限りはたとえ情報を得ても何も動かすことはできないだろう。こうして現実を見つめてみても官僚が政治に対し優位性を持つことを確認することができる。こうした優位性について本書は次のように述べている。

『この時代(第二次大戦後)の日本の官僚制の置かれていた状況はドイツのそれとも似ている。ただ、その評価は大きく異なる。ドイツの場合、批判的な知識人によって「テクノクラート支配」と呼ばれていたものが、日本では比較的肯定的に「官僚優位論」と呼ばれることが多かったからである。行政が質的に複雑化し、量的に拡大すれば、当然、政治家に対して官僚が優位に立つことになる』

行政の複雑性は戦後一時的に米国管理下にあったことにも起因するはずだ。しかし政治が官僚優位性を変えられなかったことは自らの問題だ。変えることができなかった原因のひとつに“官僚の実績”がある。それは高度経済成長でありオイルショックの克服である。ジャパン・アズ・ナンバーワンを引用した解説は誠に説得力がある。要するに表面化した政治でなく、裏方である官僚が戦後日本を成長に導いた。この実績が官僚優位性を代えがたいものにしたのだ。

“脱官僚”を選挙の枕詞のように政治家は言う。著者によれば脱官僚は政治決定の幅を広げ決定に対し説明責任を果たすことを意味するという。小泉政権は日々ぶらさがり会見をしたが民主党になりついにその姿は無くなった。日々の変化を首相のナマの言葉で聞くことはできずメディア・バイアスを通して我々は判断をする他ない。説明責任とは何かという議論を党首討論なりで行なって欲しいものである。

紙幅の関係もありここで終えるが、官僚と政治について幅広い論者の理論を加えた議論はとても参考になる。参考文献を含めて読込自らの知識の幅を増やしたいと思う。きちんと政治を見つめたいと思う人には限りなく勉強になる一冊である。

 

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