武士道・現代語訳

On 2010年11月11日, in 書評, by admin

現代語訳 武士道 (ちくま新書)

武士道・現代語訳 新渡戸稲造 山本博文訳・解説

本書は“日本人は宗教もないのにどのように道徳を学ぶのか”という対外からの疑問に応えたものであり、それを日本語訳にしたものが本書となる。

“【武士道】は新渡戸が夢見た【国民的性格】である”と帯には記されている。性格を広辞苑で紐解くと『各個人に特融に、ある程度持続的な、感情・意思の面での傾向や性質。ひとがら』とある。新渡戸は国民ひとり一人が本書で記された人物であると示したのだ。

感情や意志はなんらかの外的環境に対して起こるものである。内面から沸々とわき出るのも外部環境に適応するために発生すると言って良い。自らを振り返ると感情や意志を“こういう考え方をしてはいけない”とか“このケースではこう考える必要がある”など未だ思うのは未熟の表れである。一生追い求めるものだとは思うが、進化の軌跡がなく情けない思いをすることが多い。果たしてここで示す日本人の道徳観である【武士道】とは何なのかそのエッセンスが次の一文に表れている。

「武士道は、そのような知識を軽視した。知恵に至るために手段であるとした。そのため、その境地に達することのできない人は、たかが便利な機械とみなされ、もとめに応じて和歌を詠んだり、格言口にすることができるだけの者とされた。こうして知識は、人生において実際的に応用されるべきものだとされた。このソクラテス的な教えの擁護者は、中国の儒者王陽明で彼は『知行合一』(知ることと行動することは同じもの)を繰り返していた」

“西郷隆盛は古典に通じた学者を、本の匂いにする愚者”と呼んだらしい。“頭でっかち”を嫌味嫌った表れなのだろう。現代の文脈に落とすと“実践で有効な学びをしているか”というのがまず問題である。社会環境が激変し各個人の守備範囲が広がる以上、我々は広域の学びを心がけなければならないと思う。なぜなら“変化は何の前触れもなく表れる”からである。従来は企業が“学び”のBaであった。経済が拡張されていただのだから、学ばせるゆとりがあった。しかし国内に限ればマーケットが縮小され、そのパイを奪いある以上こうしたゆとりはあまりない。それは中小企業と社員教育の関係性に従来から表れている。
要するに我々が“知行合一”をするためには組織以外で“学ぶ”必要があるのである。実践知を高めるために多様な機会を創出しアシストすることが経営者の役目なのである。また学びが日常となるようなビジョンを描く必要があるのだろう。

本書は日本人の道徳観を示したものであり、日本人の心の“美徳”を表したものである。しかし自らを含めて、昨今の日本からこうした心を感じることはできない。経済における問題もこうした心の“表れ”ではないか。日々の報道を見ても、道徳観の欠如や甘えから発生している事件が多いように感じる。道徳観の積重ねなど終わることのない研鑽ではあるが高みを目指して失念することの内容にしたい。進化の軌跡を残したいと考える。

 

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