金融が乗っ取る世界経済   ロナルド・ドーア

金融が乗っ取る世界経済 – 21世紀の憂鬱 (中公新書)

2008年のリーマン・ショックからこの秋で4年を経過する。この痛みはうねりをともなって、ユーロに襲いかかっている。米国は共和党から民主党に変わりバラク・オバマが大統領に就任した。日本は自民党から民主党に政権が変わったが、短命総理の流れは自民党時代と変わらない。BRICはリーマン・ショック後の経済を牽引してきた。しかし政治の流れか少し息が荒くなってきたようにも感じる。

本書は【世界経済の金融化】について論じたものだ。3部に構成され、まず金融化やその背景について説明をする。そのうえで、結果として社会、政治経済、教育の変化に対し学者の受止め方を論じた。最後に改革と国際機関について分析をしている。難しい国際金融の問題をとてもわかりやすく教えてくれる一冊である。また強まりすぎた金融の影響力に警笛を鳴らしている意味でも価値は高い。

金融化を【国内経済に対しても、国際経済に対しても、金融市場、金融業者、および金融企業の役割や、一般人の金融利益を目指す動機付けが段々とましていく過程】だと定義している。こうした金融化はITによる金融、証券技術の進歩、投資家の存在意義の高まりから金融化は促進されてきた。また金融の存在はだれしも身近なものだ。高齢化社会になれば、年金運用などその距離は縮まる。

著者は【日本のイノベーションを支えたのは、人材面では、大企業の研究開発部門の優秀な従業員、リスク・マネーの方は、企業の内部投資…】だとしている。1990年~これまで実感のある経済が回復はなかった。だが改革は試みてきた。【1990年以降、成長率がガタ落ちし….米国のビジネス・スクールが興味なくし、日本人自身も幻滅して、橋本内閣依頼の政府は、労働市場、金融市場、製品市場、サービス市場、そしてコーポレート・ガバナンスでも、アングロ・サクソン型資本主義の諸制度をモデルとする「構造改革」に走ったのである】とある。しかし希望を見出せないどころか、国家としての負債は増える一方である。他国を見るとは金融化に乗れなかったことに一因があるのだろうと思う。だが乗れなかったことでサブプライム問題の直接被害はなかった。

しかし世界の金融化はスタンダードな事象である。著者はその結果として① 格差拡大 ② 不確実性・不安の増大 ③ 知的応力資源の配分への影響 ④ 信用と人間関係の歪みといった現象が起きていると述べている。

このひとつひとつを検討していくだけでもここでは紙幅が足りない。しかしどうだろうか。批判的に考察をするのでなく、これを前提に生き抜くほかに方法はない。そう腹をくくるしか無いと思っている。政治が成長のエンジンになることは無理だろう。またブレーキを掛けることも難しい。

環境からの自己や企業とその逆を俯瞰して見る。自己の環境を知る教科書的な一冊だと思う。

 

坐禅

On 2012年6月2日, in life Style, by admin

坐禅   

坐禅に参加したく調べてみたところ、北鎌倉にある円覚寺にて行なっていた。悟りとか、無我という領域でなく、内省する、見直す、考える、そんな三昧をしたかった。

“1282年 北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建された”とあるから歴史のある寺だ。また数多くの夏目漱石をはじめ数多くの文豪が縁を持っている。その日も数多くの人が拝観に訪れていた。

 実際の坐禅は“居士林”という場で行われる。時間に余裕があったので境内を散策する予定だったのだが、30分前にはすでに列をなして並んでいたことから加わることに。ひとりなにやら不安な心で本を片手に20分ほど待つと中に通された。

熟練者が多数おられ颯爽と準備し坐られていく。あたりを見回しながら手順が間違っていないか確かめながら私も坐ることに。いつのまにかうごいていた空気がとまるかのように静寂していく。

 この空気に馴染みたいと思っていると僧がこられ坐禅会は始まった。坐って心を調える。いまこうして坐っていることは、何かとつながっている。将来のなににつながっているのかは知る由もないがつながっているのだろうと思いながら、自分自身を見なおし続けた。何が見えるわけでもない。静まった空気、鳥の声、風の音、木立の音に包まれながら考えた。

すると数分間の休憩となった。いつのまにか30分もたっていたのだ。休憩といっても少し体を揺らす程度で何をするわけでもなく、前半を思いめぐらしていると後半に入った。 

少しゆとりがでてきたのか、何も考えずに腹式呼吸を意識てきに繰り返すことに。そのうえで耳と肩、鼻と臍を直線で結ぶなど姿勢に気遣った。そうするとほんの僅かだが空気に馴染めたようなそんな気がしてきた。

わずかな時間だが文明の利器と離れ、心を調える。とても気持ちの良い時間だった。繰り返し通うことで余分なものを捨てていきたいかと思う。つぎは自ら打たれようと思う。

 

Voice 2012年5月号   原発再稼働について

Voice (ボイス) 2012年 05月号 [雑誌]

【再稼働しても原発は必ず止まる】このように題された田坂先生のインタビュー記事。

この2~3日、大飯原発再稼働の流れになりつつある。国の行く末を問われる問題を、このまま決めさせてはならないと思う。野田総理は【私の責任で..】という発言があったが【Trust Me】と発し米国との関係を悪化させた。自民党では郵政改革の総務大臣が“本心は..”という発言があったりもした。度々重なれば“言葉”で信頼を得ることなど叶うはずはない。

再稼働の是非を考えるうえでは本誌は大変参考になる。論点を3つにまとめてみた。1つは情報公開を含めた【再稼働の原則】である。次に福島でリアルになった【高レベル廃棄物】処理の問題。最後に【テロ】にどう対処するかということだ。

震災直後から日本財団を始めセミナーや勉強会で原発問題を学んできた。いまだ続く福島の処理や東電のありかたが中心だった。再稼働はどこかでせざる得ない問題であり、天災に対する安全の担保を軸に考えていた。しかし本稿を始めとした論を元に考えると、夏の電力不足で考えて良い問題ではないことは朗らかだ。

今回は最初に取り上げた3つのうちの1つ【原則】ということについて考えてみる。

【この夏の電力不足が起こることへの危機感から、原発の再稼働を急ぎたいと考える政府の気持ちもわかります。しかし、こうした場面で最も大切なことは【原則】を踏み外さないことです。それを踏み外すと、国民からの【信頼】を失い、今後の原子力行政に極めて大きな【逆風】をつくってしまうからです。本来再稼働とは【事故原因の徹底究明】【事故責任の明確化】【原子力行政の抜本改革】という3つのことを行ったあとに、あらためて論じられるべきものです】

そのうえで【大飯原発(福井県)などの再稼働は、端的にいえば、福島原発が起こった三月十一日以前の法律で、三月十一日以前の手続きとルールで再稼働をしようとしているわけであり、この進め方では多くの国民の理解と納得は得られないでしょう】と延べられている。

事故調査の最終報告はもう少し時間がかかりそうだ。しかし安全性がどれだけ確認をされたとしても、将来への負債を残すことに変わりはない。首長は暫定的稼働と言葉を変えてきた。反対発言から暫定賛成まで何ら状況は変わっていない。状況が変わっていないのに政治的判断をする意図がわからない。言葉を変えれば深く考えずに発言をしたということになるのではないか。これでは“最低でも県外”と言った民主党と変わりはないと思う。

政治的判断とは何を指すのか。平成になって19人も首相が代わっているのだから、辞すことは責任を取ることになるとは思えない。財界や支持団体から再稼働の圧力があるのか。しかし政治判断に影響を及ぼしてはならない。オフィスや工場は可能な限り節電をする。家庭は東京の事例を研究し発展させ昨年より効率を高める。そうして限界に挑戦することで経済への影響を緩和できないのか。

化石燃料での代替えは温暖化を加速する。いま我々は歴史的なひとときを生きているのではないだろうか。利便性を追求し続けた20世紀。その結果、数多くの自然を失った。八百万の神に囲まれた日本的価値観は非日常となった。どうふれるにしてもいちど立ち止り考え尽くすべきではないのだろうか。哲学、文化が問われているときなのではないか。

空気を読むような判断では、悔やんでも取り返しがつかない。