何のために働くのか  北尾吉孝

 何のために働くのか 入社面談でこうした質問をした事も友人と議論を重ねた事もない。家族や自らが生きる糧を得るためであり、経営をしている立場からすれば社員や関係者が生きる一端でもあるからとなる。では家族らが生きることができれば、働かなくても良いのだろうか。または、生きられる程度に働けばよいのか。また過激に懸命に働く理由とは何か。

 周りの人がなぜ幸せそうに見えるのか。その人たちはみんな懸命に生きている。懸命なことを話したりしないが、感じ取ることができる。懸命に生きることでしか得られないことがあるのに、自分は懸命に生きてない。何かヒントが欲しくて書棚から本書を引き出した。

何のために働くのかは「何を大切に生きるか」ということにならないか。一所懸命に働くことが「天命を生きる」ことにつながると述べている。
本書でも度々語られる安岡正篤扇は以下のように語られている

運はめぐる 

命は先天的に賦与(ふよ)された性質能力ですから
「天命」と謂(い)い、
またそれは後天的修養によって変化せしめられるもの、
動くものという意味に於(おい)て「運命」とも申します。

運は「めぐる」「うごく」という文字であります。
然(しか)るに人はこの見易いことを見誤って、
命を不運命、宿命、即(すなわ)ち動きのとれない、
どうにもならない定めのように思いこんで
大道易者などにそれを説明してもらおうとする。

命は天命であると共にその意味では、
「我より作(な)す」ものであり、
自分から造るものであります。
宇宙は時々刻々の新しい造化、創造、変化ですから、
常にいわゆる「義理再生の身」とならねばなりません。
これを知命、立命と謂います。
『安岡正篤 一日一言』より(致知出版社刊)

 賦与された能力は気づきのときに持つ能力であるから、後天的性質も含まれる。天命に気づくには懸命に働かなければならない。本書では僧の修行と懸命に働くことは等しくあり日々の修行が天命の気づきを与えると示唆する。どんな会社にしたいのか、どんな企業を作りたいのかを質と数値であらわし、自らに課題を与え取組むことが求められる。

 まずは自分がどのような人物かを探求するしなければならない。日々の出来事に対して自分はどう考え、また行動するのか。未だ大半のことは達成できない。原因は考え方と行動にある。日々の自得と改善が数年たつと結果を得られるのかも知れない。またすぐに結果がでるようなことで大きな価値があることは少ない。一般論から言えば、健康で正常な判断ができる期間は限られる。残された時間の中で目的を達するには、もっと懸命に生きなければならない。

 本書は若年者を対象に上梓されたものである。自分など本書を実践し達成を幾度も経験していなければならない齢なのだ。しかしながらいま思うのは 一日 一節を日課にし生きる。ここから改めなければと痛感する。

 

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