政府は必ず嘘をつく アメリカの「失われた10年」が私たちに警告すること 角川SSC新書

政府は【嘘】をつくのだろうか。嘘をつくリーダーは果たして【真実】を知っているのだろうか。“尋ねないから報告しない”こんな疑問を本書から持ち少し調べてみた。

政府の定義を確認しながら進めたい。実際の政府の枠組みは三権分立の行政府を指す。焦点を絞りやすくするために“各省庁”を政府として考えたい。リーダーである大臣は激しく変わる。例えば2007年1月に組織変更された防衛省はこの5年間で9人の大臣が歴任している。外務大臣も同様である。

単純化すれば一人あたり半年強である。これでは組織がまともに動くはずはない。判断を得ようなどするはずもない。ましてや対外交渉など期待できるはずない。選挙には勝つが【政治・政策はわからない】・【ガバナンスなどできない】ということではないのか。これは大臣個々人の資質でなく政府という組織、選挙システム、選挙民といった全体の問題だと思う。ここには官僚とメディアを本来加えるべきだが本書の意図から離れるので問題定義はここまでにしたい。

国民から問われなければ政府は【嘘】をつく必要はない(知らないことは【不作為】であり、知っていることにして語っているのでここでは【嘘】にしておきたい)。そうした意味では数多く問われた震災時の政府答弁は“嘘の塊”だったのだと思う。言葉を大切にしなければならない政治家が前言を翻すとき“潔さ”を求められる。それが信頼を構築するすべだと思う。当時の大臣の発言を伝えた責任としてメディアは検証する必要があるのではないか。

本書では枝野官房長官の事例を取り上げている

「…この「ただちに健康に害はない」というフレーズは日本中を駆け巡り、放射性物質への不安を抱く国民の上に、絶え間なく降り注いでいった。人間は恐怖を感じると無意識にそれまでの日常や、思考パターンを続けようとする。….4月19日、原発事故において非情に危険レベルの高いメトルダウン(炉心溶融)の可能性についても枝野大臣は「メトルダウンはない」と発表。だが一方で、5月31日の衆議院復興特別委員会集中質疑でこう言っている。「私は事故直後から、メトルダウンの可能性を申し上げてきた。避難指示なども適切に対処した」…」

震災における言動を取上げれば枝野官房長官の発言になるので気の毒だとは思う。しかし結果として言葉の違いがあればそのことについて説明をする必要がある。国民の納得が得られるまで行なう「アカウンタビリティ」が求められる。それができなければ「意図的な嘘」と捉えられる「立場」に政治家はある。

本書は日本だけでなく米国を含めた他国の政府発表についても取り上げている。アカウンタビリティの問題は他国も同様だということを知ることができる。情報はメディアを通じて見聞きする。Webを含めて入手した情報を自己の文脈を通じてどう解釈するか。これが問われるのだが、幸いなことにいまはSNSがある。SNSを通じて“他の文脈かのアウトプットを知ることで多様な解釈を知ることができる。そうした意味では本書もひとつの情報にすぎない。

情報と解釈。嘘は見ぬくことは難しい。それなら文脈を太くし危うさを感じ取るクリエイティビティが求められるのではないだろうか。

 

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>