日本の「復元力」―歴史を学ぶことは未来をつくること (MURC BUSINESS SERIES 特別版)
約3年前「資本主義は何故自壊したのか」で幅広い注目を集めた。その研究背景である歴史観を本書では詳しく述べている。副題には“懺悔の書から1年半今ここに希望の書を贈る”とある。著者は日本には他国にはない文化がある。この文化が復活の要素であると言う。震災前が初版であることから影響度の考察はなされていない。しかし経済力が復元する要素の有無を問うには別段問題はないだろう。
文化がキーワードであることに異論はない。しかし“一億総中流”というよりパレートがより濃く表れる時代になるのではないかと思っている。その傾向がすでに現れているようにさえ思う。例えばヘッドハンティング対象者とリストラ対象者、複数内定者と未就職者、サスティナブルな変革経営と返済猶予などである。こうしたことが流動的ではなく固定化し始めているように感じるのである。
ここでいうヘッドハンティング対象者が猛烈に学んでいることは言うまでもない。その学びの姿勢が対象者へと導いているように思う。“希望”が持てるのはすべての人でなく、こうした対象者に限られるのではないのだろうか。少し厳しいようにも思う。またこうして書きながら自らを戒めているのも事実だ。無論“学び”だけが要素ではない。成し遂げたいという執着心も必要である。いくつもの要素が重なりあってはじめて希望が持てるのだと思う。こうした要素を持つチームに限り、日本文化という共通の価値観が効果的に働くように感じる。
著者は「…主客合一である。主と客は合一しているのが望ましく、首と客を分離しない。人間も自然界の一部であって、その中にいることが幸せだと感じる。それが日本人の感性である。自然をこよなく愛でる日本文化の特性を考えるとこのことが実感できるだろう」と述べている。
こうした価値観を有する日本人はやはり2割に過ぎないように思う。主客合一どころか“客の主張は聞くべき”という人が多い。本書を通じて感じるのは著者が述べるような人間になることが成長の要なのだと思う。先般、産経新聞日本人の識字率は5%に過ぎないと書かれていた。その原因は知る機会が“ワイドショウと中吊り広告・携帯”に限られることにある。新聞ですら政局は発信するが政治の発信は少ない。こうした現状を変えない限り蘇るのは厳しいのではないか。