本書はすでに3回は読んでいる。ここで再読した理由はいま“同じ過ちをまた犯すのでは”と思ったことによる。論理的判断基準と空気的判断基準のダブルスタンダートによる失敗を繰り返している余裕はいまの日本にあろうはずはない。
5月24日日本経済新聞には次のような記事が掲載されている。
「原子力損害賠償制度は事業者に無過失・無限責任を課す一方、政府補償や免責規定も盛る。電力会社の設備投資は政府の景気対策だった時代もある。これを踏まえれば一般企業に適用される破綻処理するスキームが安全対策を含め国と一体の公共事業の担い手になじむのか…株主や債権者に欧文の負担を求めるにせよ、当事者でもある政府に劇薬の債務不履行を避ける責任があるのではないか」
東電2011年3月決算書には「継続企業の前提に関する重要な不確実性が認められる」と記載されているとのことである。この不確実性とは【閣僚懇談会】での決定あり閣議決定ではない。要するに正式決定でもないのである。
枝野官房長官による“債権放棄発言”総理の“浜岡原発停止”発言など思考プロセスがまったく見えない。そこには“国民の理解”という“思い込み”があるだけだ。ロジカル・シンキングがなされているとは考えづらい。いわば【空気の読み違い】とも言える。内閣内の空気、野党である自民党の空気、国民の空気。空気は多々あろう。しかしここで大切なのはそうした意向を感じるとともにサイエンスであるロジカル・シンキングにより論理的な考察を行うことが重要ではないか。
国民は決定者という当事者能力をもっていない。無責任という言葉は適切ではないが自己に災いがこないような選択をする。身を切る選択などそうそうできるはずはなくそうした情報も得ていない。
東電処理は税と電気料金値上げという処理の他方法になるだろと言われている。政官業3社の責任について“ロジカルな説明”を経て国民に負担を求める必要ある。
なんとなくそうした空気になるのを待っていて良いはずはない