マルクスの逆襲 (集英社新書 494B)

著者の作品は30年以上前に「僕ってなに」を読んで依頼である。五木寛之の作品集を神保町の古書店で買込み全巻読んだ後に手にしたような覚えがある。内容もうるおぼえだが学生運動との個人の関係性についての小説だったように記憶している。著者は学生運動にのめり込まなかったとのことである。しかし当時の学生でマルクスに興味を覚えなかった人もまた少ないのではないか。著者は高校時代に研究をしたとのことである。本書の目的は“マルクスが正しかったのではないか”を論じることにある。マルクスについて著者は次のように述べている。

「近代工業が発展すると、工場主は労働力として単純労働者を求めるようになる。専門の技術をもたない労働者たちは低賃金で与えられた仕事をこなすだけで、仕事に喜びや充実感を得られることがない。そこで「疎外」という状況が生じる。発展した資本主義の社会では、労働者は労働の現場でつねに「疎外」され、生きがいを失い、人間として充実した人生を歩めなくなってしまう」これがマルクスの主張である。

“マルクスの主張が正しい”という立場で論じるので我々が現実に置換しやすい意味合いで論じている。しかし私はこれが今の“現実”だと思う。マンパワーと機械化のバランスを考え生産体制が取られる。国内であれば後者となり雇用は創出されない。パレートの均衡値が開いていくのである。日本の戦後政治がマルクスに近かったという検証をしている。これは決して著者に限った論調ではない。

「国家主導の社会主義的な官僚機構が、時代の変化に対応できなかったということだろう。すでに何度も述べてきたようにプロレタリアート独裁による期間産業への投資で経済成長が実現するのは、インフラが整備されるまでの初期段階にすぎない。ある程度、基幹産業が整備されたあとは、民間企業の自由競争にゆだねるとともに、世界の動きを見すえて、新しい産業を起こすために基礎研究や技術開発に、政府の資金を投資しなければならなかった。しかし政府と官僚は何もせずただ資金を地方にばらまいただけだった」

“政府主導で経済成長を成し遂げた”ここまではマルクス型の功績には違いない。しかし投資不足に加えてのばら撒きを問題視している。これは“制度”の問題である。産業構造転換後の選挙制度変革の失敗である。しかし現在日本の政治、経済の落ち込みの病素はこれに限ったことではないのはあきらかである。

決してマルクスで問題解決が可能だとは思わない。しかし本書はマルクスを通じて政治・経済・社会を概観させてくれる。とても興味深い一冊である。機会を見てまたこの場を通じて述べてみたい

 

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