新・経済原論 大前研一

On 2011年2月16日, in 書評, by admin

大前研一 新・経済原論

本書は2006年9月が初版となる。以降の経済に対する哲学や産業のあり方などを約500ページの渡って論じた大書だ。また英語版であったことから本書は翻訳本となる。大書を自己の文脈に落として日本からの視点で拝読した。

この20年間日本の凋落は激しい。このままで今後さらに落ち込みは加速する。こうしたことは日経を始めとした新聞などから十分に窺い知ることができる。そのなかで我々がどう経営を持続させるか。この結論のでない考察は奥深い。著者のような才人が今後の世界をどう感じているかは、こうしたライフワーク的な問題の答えを紐解くのに大変参考になる。

著者の結論は【旧来経済学の否定】である。それは我々の経営に対する考え方の変化へと結びつく。ここで著者のロジックを引用したい。

「ケインズやハイエクのような独自の思考を追求した経済学者が、当時しられていた範囲での経済変数を使って経済学の枠組みを考えていたのは1900年代初頭であり、その時代から世界は劇的な変化を遂げた。….経済学者は、経済を自分の目で真っ直ぐに見つめるのではなく、先達の眼鏡のレンズを通して解釈しようとしており、もう古くなってしまった方程式に少しばかり手を加えたりグローバル・エコノミーのごく一部を説明することしかできない経済モデルを開発している」

この理論の識者も論じており20年間日本が停滞していることで結果が示されていると思われる(にもかかわらず麻生政権で膨大な補正予算を講じた理由は計り知れない)。こうしたことからか中小企業の事業形体を変質させている。それは“コモディティ化した産業集積の崩壊”や“公共関連業種の低調”である。また「売上増加」と「雇用数」が並行する業種の経営も難しくなっている。著者はマネーサプライと金利、借入増、景気向上の関係性について次のようにのべている。ここで著者の論を示すのはこうしたことがビジネスにも変化を表しているからだ。

「この種の因果関係こそが“景気の回復や雇用の増加”といった大げさなことを約束する政治家が抱いている自信(すなわち無知)の背景にある理由なのである。政治家のほとんどが、気軽に経済学者を雇い、政策方針を作成させるのだが、それはたいていの場合は集約すれば、大きな政府か小さな政府、福祉の向上か減税かと言った議論にまとめられるものだ。本当の問題はグローバル・エコノミーとそれが国内経済に及ぼす原因や結果のことを誰も考えていないことだ」

ようするに政策投資は一時的にすぎない。生産地を問わないモノは人件費を軸とした製造コストが安価な地域で作るということに帰結する。さらに最近の傾向では「研究開発も海外移転」の傾向にある。これはクリエイティブ”全般に言えることなのだ。国内企業勤務のクリエィターは国内で競い評価がなされていれば良かった。しかしガラパゴスが否定されている。ようするに国際的感性と国際感覚が求められる。しかし人材育成の場であるアカデミックも含めグローバルとは言えない。これは文化感なのだろうか。サミエルハンチントン・7つの文明が特殊な日本を表しているように。日本文化はun global なのかとさえ感じてならない。
 企業は自社マーケットがun global であってもglobalな感覚が求められるのは言うまでもない。
自らの結論は一般論に過ぎない。マーケットをグローバルな視点から見る感覚がより求められるのではないか。2軸の視点でマーケットを判断し考察するこが重要であると考える。無論マーケットに限らずR&Dや製造を含めてのことである。

本書はこうした氏幅制限がある場では端緒すら論じることは難しい。今後辞書のように参考にしていきたいと思う。

 

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>