丸山眞男人生の対話  中野 雄

On 2010年10月8日, in 書評, 雑感, by admin

丸山眞男人生の対話  中野 雄

政治思想学者、丸山眞男の思索を論じている著書は多い。難解なものが多いがいつの日かしっかりと理解できるようになりたいと思っている。本書は弟子である筆者が、丸山との対話を日記に残したものが纏められたものである。本書を通じてだったか、亡くなられた筑紫徹也氏も丸山眞男との対話から数多くの知を得ているらしい。ひとつの社会関係性の成立といえる。さまざまな人に影響力を持った丸山であるが、著者は丸山について次にように述べている。

「丸山眞男という人の発言には、仮にそれが時事問題に対してであっても、常に人間と社会の“本質論”が立論の背景としてあるんです。だから時間が経って読み直してみても、内容が古臭くならず新鮮さを失わない。そんな恩師の思想や言説を、弟子たちが語り継いでいる」

宗教の世界などでも弟子が語り継ぐように…と述べているがまさに的を射ているのだろう。現代のように加速的に流動する社会でも普遍化可能な考えは、まさに型と言ってよい。極めて抽象的に、メタ化して思索できることがこれを可能にするのである。

著者は丸山眞男の抽象化について次のように述べている。
「事柄を抽象的原理に置換えたら、その原理に適合した他の事例を、脳内に蓄積された知識・経験の中から探せばいい。見つかったら、直ちに話題として提示する。それが【譬え話なのだ】と私は思う。だが頭の中に森羅万象、古今東西の知識が存在しなかったら、譬え話などできない。そして、本来別物である二つ、三つ、ときには四つ、五つ歴史的事件や現実の事柄を、抽象化されたセンサーで瞬時に接続して新しい物語に作り上げる頭脳回転の速さがなかったら、対話の相手を前に当意即妙の譬え話など、できる筈がない。丸山はその二つの武器を縦横無尽に駆使できる、稀な知的巨人であった」

これはもの凄いことである。豊富な知を瞬時に結びつけ表現することがどれだけ難しいことか計り知れない。表現を前提とした研究活動であったことは、文中からも伺うことができる。物事の抽象化は自らの課題である。今後は抽象化し“なぜ抽象化が可能であるか”を表現することも併せて自らの課して行きたい。

丸山が対話好きであったことは有名である。しかしどれほどの教示を受けられるのであろうかと思える。ライブは、文献の知に多様な加筆をしてくれるのである。知識リーダーシップ綜合研究所・徳岡教授が著者を交えた読書会を開催している。この会で先日一橋大学名誉教授である野中郁次郎先生の講演を拝聴した。やはり書を執筆するにあったての考えや視点など勉強になる。こうした経験を踏まえても、丸山の社会関係性が生み出した“人財”が如何に素晴らしさに触れることができる。
人が成長するには対話が必要であることは間違いない。まず自らが対話を可能とする人材に成長しなければならない。折をみて本書をもう少しレビューしたい。

 

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