戦後政治の崩壊  山口二郎(2)

On 2010年10月5日, in 書評, 雑感, by admin

戦後政治の崩壊  山口二郎

1990年頃のバブル崩壊を堺として、政治経済は混沌とした状態が続いている。当時『経高政低』と、言われていた。日本の戦後政治は、疑獄事件は途切れることが無かった。しかし政権が交代しなかったのは、経済が成長をしていたことによるのだろう。以前オリックスの宮内会長と中谷巌教授の対談を拝聴したことがある。宮内会長は経済低迷の理由を『戦後の未処理』が要因と述べた。昨今の中国や韓国またアメリカとの問題は、すべてここにあるのではないかと私は思っている。
本書の戦後処理についての論調を少し長いが引用する「戦争責任を若い世代としてどう考えるかというときに、われわれが好むと好まざるに関わらず、われわれは日本人という集合に帰属するものと国際社会においてみなされる。そして、日本人という集合の連続性からわれわれは自由ではありえない。やはり日本人としての責任という形で論理を構成せざるを得ない。個人主義的に考えれば戦争責任ついて『あれは六〇~七〇年前の世代がなした悪行なのであって自分は関係ない』という主張は論理的には可能かもしれない。しかし、この議論は日本の外に対して説得力を持たない。個人のレベルで親からなにがしかの財産を相続するのと同じように、われわれは国民という集合として前の世代から正負両面の財産を相続・継承していることは事実である。…そのような戦後の日本の繁栄は、一面で近隣諸国に対する戦争責任を果たすことを怠ってきたことによってもたらされた。かつて侵略し植民地として支配した地域の人々に対して、戦争が引き起こした被害についての償いを怠り、もっぱら国内の問題ばかりに関わることで日本は戦後繁栄してきた」と述べている。

こうした論調に対し『十分に償った』という反論はある。しかし償えているか否かは、相手側の問題でもある。日本が一方的に悪いのではないという議論もあろうかと思う。問題は“相互が承認できる事実確認や問題解決がなされていない”と言うことではないか。その時点での相互の政治情勢があり致し方なく承諾した。また新たな事実が発覚したから再考を促すということもあろう。
こうたことについて私は、相互国家に第三国を加えた学者が議論を重ね見解を示すべきであろうと思う。一部の国家とは近年行っているが、政治的配慮をせず長期的に行う必要があると考えている。こうしたことを繰り返し、戦後処理を行う必要があると思う。そのうえで政治的配慮を加え結論を出す必要があると考える。筆者は「…前の世代の財産と負債を両方相続しなければならない。時刻の歴史的責任を引き受ける『民族道徳』(中野重治)を確立することが必要になる」と述べている。ここには「君が代」や「国の愛し方」「伝統の尊重」なども含んでいる。こうしたことを含め戦後処理なのである。

戦後政治の崩壊―デモクラシーはどこへゆくかーと題した本書は、7章211ページに渡り論説が進む。憲法、政党再編、政治主導の挑戦など興味深く読むことができる。筆者が望んだ2大政党制を構築するには「国会文化」を変える必要があるのではないか。文化を変えるには強いリーダーが必要である。そのリーダーに戦後処理を託したいと考える。政治は誰でも語る。私自身も雑読の域を脱しない。しかし自分なりの国家感を今後も深めたいと考える。

 

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