研究計画書の考え方―大学院を目指す人のために (DIAMOND EXECUTIVE DATA BOOK)

先日の「研究計画の書き方」に続いて本書を手にした。実学の組織論や分析を覗いたマーケティングの礎は幅広い。日々の環境変化を無視しては捉えることができない。構成する各々の事情すら変数となる。以前、大手流通企業の役員をしていらした教授が“仕組みを全く変えなくても「担当者」を変えるとすべての問題が解決することが良くある”と述べられていた。営業などまさにこれにつきる。しかしそこには理由があるはずだ。担当者がほんの少し仕組みを変えていたりすることもある。またモチベーションをあげるために対話を繰り返しているのかもしれない。本人も気づかない一定の法則があることは間違いない。

こうした“実学”について本書は次のように述べている。

「おおざっぱに学問の体系を分けると<理学→工学(理系)・哲学→実学(文系)>となる。いわゆる理系の学問が理学と工学にわかれる。簡単言えば理学とは物理学のように物事自然現象の法則とか理論を打ち立てる学問であり、それに対応して工学とは現実の世界を操作する技術の学問である。一方、文系、すなわち人間や社会をあつかう学問では、物事(とその見方)の根本を考える哲学があり、それに対応して現実社会に実践的に取組む【実学】、というものがある。一般的に実学というと、とかくハウツーものととらえられることが多いが、本来の実学とは、理学に対応した工学と同様の位置づけをもつ実践学と考えてよい」

この定義を新鮮に感じた。いままで“実学”というとどこか“実践的な落としこみ”に過ぎないように感じていた。しかしその背景に“哲学”があることを明確に示唆されることによって深みを覚える。これらを踏まえた考察・フィールドワークがあった初めて研究に位置するのだと痛感する。反論を踏まえて言えばその対象に【神田・勝間】があるように思う。【神田昌典・勝間本】には哲学を感じない。“消えモノ”に過ぎないのではないだろうか。

実学といえども学問である。本書では【学問の3つの方法】として演繹法 帰納法、意味的解釈を紹介する。データーを集め推測し構成の整理する帰納法。論理的矛盾がないかを検討する演繹法。動機的解釈をともなう意味的解釈。そもそも学問を辞書で紐解くと【一定の原理によって説明し体系化した知識と理論的に構成された研究方法などの全体】とある。これら3つが原理なのだ。

このように幅が広く奥行きがある学であるがライフワークとして取り組んでいきたいと思う。

 

フィリピン「超」格安英語留学

「英語を学ばなければ」こんな思いで悶々としていたとき“中学英文法を徹底的にやることが最短”と知人がJAL通訳の方に教えて頂いたと話していた。素直に受け止めずいぶんと時間をかけ中学英語をやり直した。そこで次にどうするかを考えていたとき、本書と出会ったのである。

「留学!」確かにいまさながらと思う。学びに年齢はないとは言え些か照れくさくもある。しかし例えばマーケティングについて調べる時「英語」と「日本語」では取得可能な情報量が大きく違うことは明らかだ。取引先の拡張などビジネスの幅は格段に広がる可能性が高い。またこうしたblogなども「英語」と「日本語」ではアクセス量に違いがでるだろう。書籍や映画なども.comか否かでは格段の違いがある。確か古賀茂明氏(官僚の責任・著者)は「この時代英語もPCもできずに仕事などあるはずがない」と述べている。要するに必要最低限の知識ということなのだろう。

 本書が進める「フィリピン短期留学」は確かに魅力を感じる。初、中級者向け、コスト、環境などハードルを相当下げてくれる。米国などへ学びに行くのは現実的でない。自分の環境に一致し継続的に学べるような気持ちにさせてくれる。早速いくつかパンフレットを取り寄せてみた。検討中ではあるができるだけ早い時期に実行に移して見るつもりだ。

230ページから構成される本書は英語の必要性、留学のハードル、現地での生活、アンケートなどかゆいところに手が届く可能用に説明をしてくれる。読み終えれば“時間的ゆとりがあれば実行すべき”と思わせる。それよりもどんな立場であれ学ばなければならないのだと思う。最大のハードルは「心」であるに違いない。

留学検討者は一度読むべきかと思う。

 

柳井正の希望を持とう (朝日新書)

ユニクロ代表者である著者の本は社員やこれから社会に旅立つ若者に向けているものが多い。しかし以外と琴線に触れ考えさせられる。大器晩成は遅咲きというイメージがある。また“成長期”とは肉体的な成長を示す言葉であるが、能力の進化や精神的成長も含むのではないかと思う。よって成長期とは“諦めるそのとき”までの間を示すのではないか。こうした考えの下本書を読めば齢40歳を超えても心に素直に入ってくる。

 人が成長を可能にする要因は何か。経営者なら企業ということにも繋がる。これは目標や希望を持ち続けることにあるだろう。経営について“危機感”の重要性を教示する。

「自己変革について、私がこれほどまでに強調するのは、経営者は常に危機感を感じていてなくてはならないと信じているからだ。会社というものに安定や安心はない。努力もせず、何の手も打たなければいつのまにか危機が忍び寄ってくる。危機感を持って、細部まで点検をしていないと、会社なんてすぐにつぶれてしまう….経営はいつも断崖の上を歩いているようなもので、緊迫感を維持していないと、会社そのものを維持することもできなくなってくる。さらに言えば、多くの人は危機感と不安を同一視している。だが両者は性質の違うものだ。不安とは、漠然としたもので、正体を突き止めることさえできればたいていの人はほっとひと安心する」

 “漠然とした不安”から逃避してはいけない。常にその要因を考え消し込むことが求められる。考えるのでなく悩むような状態はメンタル的にも危うい。著者がいうように「性質」が違うのだから不安要素をあぶり出すことがはじめの一歩なのだろう。若い頃は毎日書きだした著者は述べている。自信に満ち溢れている柳井社長が「不安を書きだす」とは想像しがたい。しかしこうした愚直な行動を続けること以外に成功への道は無いように思えてならない。成功者の事例に事欠くことはない。

自らを戒めることを踏まえ著者の考え方を紹介したい。

「経営とは現実の延長線上にあることを一つひとつ形にしていくことだと考えていたわけだ。毎日、努力さえしていれば、その歩いた先に何かしらの結果が待っていてくれると素直に思っていた。しかしそれでは“できるかできないか”がよくわからないうちに、“自分達にはできない”と自己規定することが起きてしまう。ちょっとでも障壁があると、すぐに方向転換したり、目標の修正をしてしまう。経営における「ブレ」とは、こうしたメカニズムで生まれてくる。対してジェニーン氏は「現実の延長線上をゴールにしてはいかない」と強調する。最終的な目標を明示して、その実現のための方法を規定し、組織全体で実行していくことが“ほんとうの経営”だと思っている」

突き詰めるとこれいがいに成功の法則・生き残る方法はないのだと思う。

 

ジャーナリズムの陥し穴: 明治から東日本大震災まで (ちくま新書)

ジャーナリズムの影響力は大きい。帯には「事実を追わないマスコミは今すぐ退場せよ」とある。実際受け止める側は報道が真実か否かは推測を超えることができない。ワイドショーなどが情報を歪めるからだ。不二家が“みの もんた”の無知・無邪気な発言により倒産に追い込まれたのはこの問題の典型だ。また著者が政治に影響力を示すことは「サンデープロジェクト」でその瞬間を見てきた。みの もんたと同列に著者を扱うことはできないが、このように国民だけでなく企業や国家に対してもメディアは強い影響力を示すのである。

本書は明治からのジャーナリズムの歴史について多くの紙幅を取っている。他国では戦中報道は大本営発表となり特殊なものとなるためか敗戦によりメディアは倒産に追い込まれることを耳にしたことがある。しかし第2次世界大戦挟んでも国内メディアの企業体は何ら変わることがなかった。 “GHQが占領政策を円滑に進めるため”というのがその理由だった。

「軍国主義に宣伝機関になっている日本のジャーナリズムを、そのまま占領統治、つまり民主化と、ふたたび日本の世界の脅威にならない存在にするための宣伝期間として使えば良いと考えたのです」
これを見れば前記した問題点、誘導政策を意識的に行っている証左である。

ジャーナリズムが作った穴に陥らないために我々はどうすべきかを考えねばならない。こうしたことを日々考えているわけにもいかない。現実的なのは比較検討し自らの意見を持つことではないかと思う。例えば産経新聞と朝日新聞の主張を比較するなどだ。主だったニュースの時に行う程度で良いだろう。主張が違う月刊誌ならよりよいように思う。ひとつのニュースに対し企業のバイアスがどうかかるかを知ることで真実が見えてくるのではないだろうか。

巻末に1990年当たりからの政治家との会話が記載されている。その中に鳩山元首相が普天間問題を著者に相談している一節がある。

“ちょうどこのとき(2010年5月)、鳩山から私のところに「ちょっと話がしたい」と連絡があった。私は「岡田さんに、自分の考えがあると言った時、本当に考えがあったのか?」と訊いた。すると鳩山は「実はなかった」と言う。….「実は行こうと思っていた(沖縄)しかし周りが総理は動くなと言われた」と言うのである。周りと言うのは平野官房長官や北沢防衛大臣のことだ。前述にように岡田は手を引いている。私は言った「あなたね、そんな言葉を信用したのか?」鳩山は力のない声で「必ず実現するからと言われたから信用した」と答えた。「どうするんですか、これから」「いや、だからこうして相談しようと思って。どうしたらいいでしょうか」”

この首相を民主党は選択したのだ。政党として綱領と理念は結びつく。創業者であったにしてもあまりにもひどすぎる。これが新聞やTVのメディアに出ていたら果たして信じたろうか。扱い方によっては信じないように思う。

経営における情報の扱いもどうようだ。指針を明らかにして考察しなければならない。

 

東電帝国―その失敗の本質 (文春新書)

押さえとくべき一冊と痛感。
東電は政治、メディア、公共事業の代えがたい影響力を持つ。周知されている事実を丁寧に解説してくれるのが本書である。そこには戦前から脈々と続く流れがあった。見出しはこう説明している「札束で政治家を、天下りポストで役所を、寄付金で学会を、潤沢なPR費でマスコミを支配し原発神話をつくりあげてきた東京電力。元朝日新聞電力担当記者が、長年の取材を元に“驕りの帝国”の実像を描く」とある。

ここでは原発の是非について問うものではない。しかし“原発は安全である”という論調を作るために学会、政治、PRにより世論を誘導していたとすればそれは問題である。福島原発は東京ドーム22個分の用地だという。本書によれば用地取得以前に耐震調査が行われている痕跡は無いという。浜岡原発や柏崎刈羽原発のようなできごとがおきても何ら不思議ではない。メディアを通じたであろう“安全への誘導”。ここで明らかになったのはメディア、政治家、学者などの発言は自己の文脈を通じて慎重に咀嚼する必要があるということだ。

今回の事故以降さまざまな指摘がなされていたことが明らかとなった。ここで取り上げた人災ということが証されたに等しい。東京電力は社会的責任を取るということになるがどうやら倒産をさせない方向である。地域会社として存続するのであれば電気料金値上げによって収益を嵩上げすれば支払不能になることなどあり得ない。人災であるにもかかわらず会社更生法などの法的責任を取らない。これは超法規的措置なのだろうか。本書は今後の値上げについて次のように述べている。

「総括原価方式だと政治献金も原発PR費も、原発事故で発生する原発廃炉費や被害者、農業、漁業、畜産業に支払う保証金も経費に計上でき、総括原価は大きくふくらむ。このままの料金方式でいけば、福島第一原発事故後の電気料金は大幅値上げになる可能性もあるのだ。電力業界の政治献金は、値上げをいつ申請しても認可されやすいようにしておく、いわば環境作りである」

“電気料金値上げは必然”というのが大方の見方だろう。個人は節電などでカバーするほかない。問題は企業だろう。円高、高法人税率、高コスト、人材問題etcいまの状況を考えれば海外移転を検討するのが企業のあるべき姿だろう。トヨタが国内工場新設体制を決めたとき乱心したのかと感じた。結果として就職問題は今後より加熱しGDP、プライマリーバランスなどの問題は手が付けられなくなるのではないだろうか。
ここに至っては処方箋がかける人物はそんざいするのだろうか。