日本企業にいま大切なこと (PHP新書)

アカデミックな二人が震災後の日本を憂いて論じた一冊。共感を得ると同時に数多くのことを学ばせて頂いた。日本には誇れる資産が多数ある。事象を真摯に見つめれば再起の契機は多いという心遣いが随所に感じられる。リーダーは何を考えどのように行動すべきかを示した貴重な一冊である。

「日本企業」について論じたものであるが、政治についても一言を述べている。それは原子力についてだ。いま国内は“原子力は悪”という空気がある。北海道の原子力発電所は再開が決定されたが“民意は非原発”として再開を難しくする県は必ずでるだろう。しかしこれはあまりに安易であり思考停止しているに近い。序章において野中教授は次のように述べている。
「最先端の科学技術とはそもそも、たえずリスクと表裏一体だ。たとえば飛行機の開発において、ライト兄弟は「これは100%安全か」と悩んだだろうか。今日の進歩とは、そのようなリスクを克服するための努力を営々と続けてきた結果である」・「冷静な議論を行わずに感情論を先行させれば、行き着く先は複眼的なリアリズムを喪失した日本軍の二の舞になる。「原子力は悪だから即停止」という考え方を採った時点で、原子力エネルギーのリスクとその対策にかかわる、リアリスティックな議論が封じられてしまうのだ」

原子力というリスクを十分に知り、トレードオフ後の日本がどうなるのかを政治は十分に考察する必要しなければならない。寺島先生は“製造業が日本に留まる理由は無い”という。その大きな要因に電力問題がある。歴史の審判を仰ぐ俯瞰した判断選択は“政治家”以外行うことができない。送電分離を含めたジャッジメントを下せる“政治家”が果たして存在するのだろうか。企業リーダーはこうしたことを踏まえ判断を迫られている。まさにリーダーの資質が求められる時代と言える。

些か長くなるが野中教授の考え方を紹介したい。
「…ポーターに指摘されるまでもなく、これまで日本企業は全員がある種のイノベーターとして、コミュニティを生かした持続的イノベーションを行い、無限に共通善に向かって成長するという類いまれなる経営体を創り上げてきた。….私と竹内弘高氏の共同論文「ザ・ワイズ・リーダー」はまさに、この点を指摘したものだ。「日本の経営者は賢慮のリーダーである」という内容に世界中から多大な反響が寄せられている。…「国民的元気」を現政権は意識しているだろうか。コミュニタリアンが内向きになったとき社会は閉鎖的になり、創造性を喪失する。だからいま、成長戦略も、財政戦略もない日本社会に閉塞感が漂うのである。なればこそこれだけのグローバル・スケールで世界が胎動するいま、経営者は日本企業こそが21世紀のニューモデルとの自負をもち、閉ざされた社会主義と資本主義が総合された「ワイズ・キャピタリズム」の重要性を発信すべきだろう。分配から成長路線への転換が求められるいま、企業は政治に戦いを挑み、スティツマンシップ(真の政治性)を発揮しなければならない」

“社会主義”という言葉をどうとらえるかだが、中国は無論、GEに代表されるオバマモデルや韓国のトップセールスなどグローバル環境は日々刻々と変わりつつある。FTA、TPPもこの範疇にはいるだろう。前記した企業リーダーは環境を捉える自己の文脈が企業の命運を分けることとなる。

ここまでが序章のレビューである。次回本編について論じたい。

 

世界を知る力 日本創生編 (PHP新書 749)

著者は情報分析に加え、骨太な歴史観の上に未来を語ることは著名である。本書は日本人の心の礎を親鸞の教えに置き論じている。私自信は、仏教は無論、宗教全般に対する知識は少ない。しかし諸先輩がこうした考えや教えを基に雑事を紐解く場に良く出会う。そのつどリベラルアーツの少なさに嘆くのだが進歩がない。これを是非今後の機会としたいと思う。
著者は自らの、哲学や歴史観をもとに閣内に助言を与えている。そうした中で震災後の日本のあり方を語ったのが本書である。

考えかたの軸いとも言える親鸞の教えを次のように教示している。

「私たち修正の譲往生は、すべての衆生を救済するという誓いを達成せんとする阿弥陀仏(他力)の働きによって持たらされるのであって、わたしたち凡夫のはからい(自力)には左右されない….むしろ自力でとことん努力を積み重ねたうえで、圧倒的な敗北感、無力感、挫折感を経験しないと、本当の意味で理解することはできないのではないだろうか…自力と他力。水と油のようでいて、まったく、そうではないのである。自力は他力に即され他力は自力を持って働きを見せる。危機のときこそ、他力と自力は共鳴しあい、私たち衆生に、蘇生するための光明と力を与えてくれるのではないだろうか」

ひと言で言えば“この絶望的な状況から這い上がろうと突き詰めたとき“自らを助けるもの助く”作用が働く“というのが著者の考え方である。日本人は明治維新、大戦、そして震災と節目を迎えているという。石原慎太郎は今回”堕落“という言葉を使った。渋沢栄一も関東大震災時に”堕落が震災を招いた“と述べている。お二人とも被災者への慈悲を踏まえつつ、日頃に一部の堕落した行動を指していたったのである。著者はこうした発言については述べていないが6月に政府発表された報告書について次のように述べている。

「貧困を生みだす構造を取り除かないかぎり、問題の解決には至らないのと似ている。厳しい現実を踏まえながらも、対処療法に陥ることなく、体系的に問題解決の方法を考えなければならないだろう。その意味で6月末に政府の復興構想会議が提出した報告には大いに失望させられた。この報告書を受けて菅直人首相は「歴史的な重厚な報告書」と評価したが日本の知的劣化を象徴するような構図を見る思いである。そこには復興を構想付づけるビジョンもグランドデザインもない」

これがいまの政治、官僚、知識人の限界なのか。「堕落」なのではないか。そうなのであれば極めて危険だと捉えざるを得ない。著者が歴史を紐解くとこうした行き場がない状況になると「救世主」を求めるのが人の常であるようだ。しかし救世主に対する盲目的な渇望が震災以上を招くと述べている。関東大震災後の大戦を指しているのだろう。本書を通じていま日本がこうした状態にあることは随所で気付かされる。また将来に対する渇望が見えないことも事実だ。今月号の文藝春秋には次期総理をめざす野田財務大臣の論文が掲載されている。しかしまずは問題を先延ばしせず、マニフェストや指針をなにも実行できなかった責任を論じるべきだろう。こうしたことも著者が述べる悲劇への端緒なのかも知れない。

本書は全般を通じて歴史と現実を照らし合わせながら考え方を教示してくれる。政治に関与せず、被災地でない場に生きる者は、まず目の前の仕事を淡々と行うことが何かに結びつく。また知性を高めるために日々研鑽することも同様である。そうしたなかで、自らができることは何かをいま再び考え行動する必要があると痛感した。

是非手にしたい一冊である。

 

経営戦略の教科書  遠藤功

On 2011年8月17日, in 書評, 経営戦略, by admin

経営戦略の教科書 (光文社新書)

これから経営戦略を学ぶには良書だと思う。しかし教科書というには些かボリュームに欠けるのではないか。考察を深める端緒として活用することをお勧めしたい。15講義にはケースが取上げられておりMBA的だとも言える。

経営戦略に正解などない。それは取った戦略が成功したからと言って他の戦略を否定するものではないからだ。だがこの“戦略は適応外”だという確認はすべきだろう。中小企業の文脈に落とせば、ボードである経営者の能力や熱意によって結果は大きく変わる。比重は高いが戦略を立てずに対処療法で持続的な成功を収めた事例を目にしたことはない。どこかで常に歪を抱えているように感じる。少ない経験から言えば“原理原則”は必ずおさえるべきだと思う。その点について本書は次のように解説する。

『……そうした選択肢の中から、自分たちが生みだす「価値を特定」することが必要です。この価値特定こそが経営戦略です。つまり自分たちが「戦う土俵」を見極め、絞り込むことが、厳しい競争だけに打ち勝つためには必要です。「戦う土俵」とは、競争相手と戦う場(バトル・フィールド)と呼び変えても良いかもしれません。どの「土俵」で戦えば、自分たちは持続的な差別化が可能なのかを冷静、かつ客観的に見極めること、数多くの選択肢の中から、自分たちが生み出すべき差別化された価値とは何かを決めることこそが、経営戦略の本質的意義なのです。だからこそ、経営戦略とは経営の「背骨」だということができます。しっかりとした「背骨」があるからこそ、人間はひとり立ちし歩むことができるのです。「背骨」がしっかりとしておらず、グラグラしていたのでは、まっすぐ立つことも、歩くこともできません』

実に的を得た一節だ。カタカナにするとドメインやセグメントなどの言葉が飛び交うが「戦う土俵」という言葉が適切に思う(相撲には強烈に不信感を持つ)。中小企業であれば経営者自信が戦略と戦術を考えなければならない。大枠を如何に精緻な実行ベースに落とすかここまでが責務であろう。そのうえで管理体制を組みPDCAを繰り返すことになる。戦略という言葉が大手企業だけに有効なように捉える中小企業経営者が多いがそうではない。組織が小さいことを考慮し細部までやることが大切なのである。

経営戦略の研究ノートを本書を基に再び作りなおして見ようと思う。

 

トレンラン  中沢峠

On 2011年8月17日, in life Style, by admin

先週に引続き南高尾を走った。城山湖登山口から発電所、城山湖を抜け中沢山へと登る。少し早めに起き7時半頃登山口に到着。日中の暑さより幾分穏やかな気もする。登りを走るのは些か厳しい。早歩きが現在の限界だ。少し暑いことを忘れれば森の中はやはり快適だ。日々の雑感が煩わしくなる。苦しくなる直前まで雑感に対し素直に考える事ができるようなれる。これも自然の恵みのような気がしてならない。

自然に感謝しながらいつもの城山湖を上から見下ろす。

ここまで約45分程度で到着。ここで軽めの朝食。持参した飲み物は既に生暖かい。次回から小さめの水筒を用意しようかなどと考えながら食事を取った。三ツ沢峠を超え高度を上げながら今日の目的地である中沢山をめざす。山道を歩きながら日頃の通勤時間を割引いても手軽にトレッキングを楽しめる環境は捨てがたいように感じてならない。色々なことを思いながら1時間半程度歩くと見晴らし台に到着する。

写真中央に見えるのは城山湖に近い津久井湖だ。津久井湖は相模湖へと続き近くには道志川が流れる。天気が良ければ富士山も見えるらしい。いずれ見ることができるだろう。どうやら山行や海に行かない週末はこのトレッキングが習慣化するような気がする。距離や目的地を変えながらこれからも楽しんで行きたい。

爽快な休日の朝だった!

 

国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)

自由民主党に属する林芳正議員と民主党に属する津村啓介議員が議員になるまでから国会での活動を綴った一冊。林議員は家業が政治であり、どちらかといえば良くあるケースのように感じる。津村議員は家業ではないが公募、当選という流れであり党内で別段めずらしいものではないのだろう。

両議員の履歴、活動の比較は本書に譲るとして全般を通じて感じたことを述べていきたい。サラリーマンを経験し林議員は家業の特殊性、津村議員は日銀問題などを端緒に立候補、当選となる。両氏ともに痛切に感じたのは「重みの欠如」である。日々の雑務や折衝の難しさなど理解できることは多い。しかし“臥薪嘗胆”必ず成就させるという思いと遠いなというのが実感だ。このブログでもさまざまな代議士や経営者の著書を紹介してきた。成就がした人物が言葉の上手いかと言えばそうではない。ただただ熱意が伝わってくるのである。これは“時代の違い”なのかも知れない。戦前、戦中、戦後の混沌とした時代を生き抜いた人物とそうでない者の違い。それが一冊で纏まったとき違いを感じるのである。

林議員の一節に民主党議員が良く口にフレーズがある。
「国会は“議会制民主主義”の象徴であり権威の府ではあるが、権力の府ではないのだ。真の立法者は別にいた。官僚だ。形式と実態がかけ離れていた。「脱官僚依存」に挑戦することになる。…」

挑戦するのは勝手だが失敗した時のリスクは誰が取るのか。国会議員でも国政の経験がなければ果たしてそれ以上の仕事ができるのか。一気呵成な行動はあまりにもリスクが高い。結果として今に至っているというのが実感である。ようするに理念がないのだと思う。脱官僚は国創りの手段に過ぎない。国民の側から言えば住みやすい国であれば、だれがやっても良いのではないか。次の選挙よりこれからの国について考えて頂きたいものである

 

新・福音書  苫米地英人

On 2011年8月11日, in 書評, by admin

ドクター苫米地の新・福音書――禁断の自己改造プログラム

プロローグに『奴隷の人生』とある。『他人または社会の価値観に基づいて理想を追求しそれに沿ってつくりあげた人生』がその意図だ。本書はこうした人生から如何に脱却し自己の価値観で生きる手法が述べられている。著者は宗教、脳、自己管理などの一人者である。そんな著者の言葉だから納得を得ることができる。

『奴隷の人生』は価値観などでなくとも最も身近にある。生きるためとし会社奴隷の人物もいる。会社と生きる喜びが一致しない人の方が多いのかも知れない。また家族の奴隷になっている人も少なくはないだろう。以前から『支配されている』という言葉でこの問題を考えてきた。例えば毎日の飲酒があった。習慣的に毎日飲む生活は夜という時間を支配される。活用できない朝時間も同じことだ。『金』もそうだろう。金銭欲の支配は発想が貧困となるのではと考えてきた。こうしたことを考えるのもミドルエイジクライシスと無縁ではないのだろう。

本書は新しい考えを述べているものではない。しかし改めて考える時間を与えてくれる。しかし再認識することで再構築を可能にすることは間違いない。

『不幸の原因はすべて自分にある』

『あなたは「いまの自分」を不幸だと感じていますか?もちろん「禍福はあざなえる縄の如し」で幸せなときもあれば、不幸なときもあるでしょう。どちらにしても、少しでも自分は不幸だと感じることがあるのなら、不幸だと思うその原因を突き止めて、自分を変えなくてはなりません。本書でめざすのは「常に、圧倒的に幸福でいられる自分」です。「なりたい自分」像は人それぞれであっても、この点だけは万人に共通の夢であるはず。まず「不幸はどこから来るのか」ということから考えてみましょう。といっても答えは簡単。不幸の裏にはすべて「自分の失敗」があります』

このように話しは進んでいく。そのうえでテクニックを教えてくれるのだ。“原因を突き止め改善する”多数の成功者が語っている言葉だ。これを失念しないことが最初の一歩のように思う。

 

ほんとに、彼らが日本を滅ぼす

著者の“彼ら”とは民主党をさす。帯には『運命のカウントダウンは始まった』とある。国民の多数が選択をしたのだから『運命』という言葉は適切でないように思う。しかしカウントダウンが始まっていることは事実だろう。

本書は『民主党』の政を解説し極めて厳しい評点を下している。メディアを通じて見る限り混沌とした被災地の目を覆うばかりだ。メディアも議題の中心が原発となり福島県以外の被災地に対する報道は少なくなってきたようにも感じる。国会は“赤字国債関連成立”“首相退陣”という流れができつつあるかのような報道だ。少数政党・公明党の意向に沿うようだ。国民が納得という言葉がよく使われるが痛みを強いる時期ではないのだろうか。いまの包摂性は持続不可能ではないのか。この合議は財政危機を懸念しての選択である。結論に是非は別として少数政党の解が民意になるという危機感も併せて持つ必要がある。 

もう一方で著者が極めて懸念する安全保障上の危機を我々は失念してはならない。著者の言葉を要約すると、『彼ら『民主党』は鳩山由紀夫首相の東アジア共同体構想、600人の胡錦濤詣と中国一辺倒の政治を実行した。しかし3.11東日本大震災以降、日本の領空に接近してくる中国機に対し、日本の航空自衛隊が行ったスクランブルは、昨年動機の2.5倍、96回に登っている。さらに6.23には中国水産科学研究所所属「NAN FENG」が日本の排他的海洋水域に入り放射能汚染調査を行っている』

 中国は“やりたい放題”というのが実感だ。詳細は本書に譲るが目に余る行為に対し威厳をもった発言すらできないのは何故なのか。党綱領を作れない政党だからなのか。政権経済というシングルイシューで選択しているからこうなるのだろうと思う。外交、防衛、社会保障、財政、経済など幾つかの方向性を政党は示さねばならいのではないか。可能であれば国を左右する基本的な外交や防衛スタンスは争点にすべきではない。基本方針以外のりしろを争うべきだろう。

 著者はこうしたこと踏まえ米国、中国、東アジアとの関係について語る。冒頭では原発における危機管理の問題について論じている。いま日本が抱える外交、防衛、危機管理の問題について精緻にさまざまなことを教示してくれる一冊だ。すでにカウントダウンが始まっていることを忘れてはならない

 

日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ (中公新書)

民主党政権がここまで危ういとは想像をしていなかった。細川政権時の政治評論家は実際の政治は官僚が行っているので問題ないとコメントしていた記憶がある。それでは現在の体たらく“官僚の力が落ちた”ことが問題なのか。そんな問題意識を持ちながら本書を拝読した。本書は2007年初版であり民主党政権が前提とはなっていない。

戦後長期間続いた自民党政治にも当然問題はあった。地域や業界団体の代表となり外交や防衛はおざなりになっていたように感じる。経済のパイが拡大していたことで所得が◇構造となり消費者は底辺意識が低かった。時代が変わり90年代から経済構造が変わり△の消費者構造となり底辺人口が拡大し不満が募った。しかし中小企業勤務者が95%に及べば不安定な雇用情勢は今に始まったことではない。情報過多や大学進学率が50%となり知的水準があがり問題意識が高まったに過ぎないようにも思う。要するに◇の中心部と△の底辺にあまり差はないというのが私の考えである。しかし◇は上下を見ることができた。△は上部しか見えない。この現象が思考に大きな違いを与えるのではないかと思う。

この△の高さが低くなると将来への希望が見えにくくなる。TPP、消費税増税など将来へ繋がる端緒が見えた菅内閣ではあった。しかしいまや外交日程すら危うくなっているようである。菅首相は選挙からにより国民から信託を受けた。よって4年間は政権を持続させるというのが就任前からの持論である。ここが選挙の怖さであり、このような解釈をするということを著書からでも事前に知っていれば幾分結果は違ったかも知れない。日本の首相は権限を活用すれば強いという解釈がある。

『先進民主制に限れば、政治体制は大統領制と議員内閣制に大きく分けられる。その歳に両者を分けるもっとも重要な点は、二元代表制か一元代表性かである。つまり、民主制のもとでも大統領制は、大統領と議会とが別々に選出され、それぞれが正当性を有しているため、民意は二元的に代表される。それに対して議員内閣制は、議会のみが民主的に選出され、その議会の正当性を基盤として内閣が成立するために、民意は一元的に代表される。ここに着目すれば、議院内閣制のほうが大統領よりも権力集中的な制度である』

このように本書は論じ、他でもこの論調はよく使われる。しかし安穏としていたわけではないにしろ政治が生活に深く関与しない限りここまでの意識はなかったのではないか。本書を読み解くと“慣習や通常”といった明文化されていない縛りが多様にあることがわかる。根回しやお伺いによって政治が成立していくのだ。具体的数値は手元にないが政治は家業に近い。そうであるならこうした文化を幼い頃から身につけていることは強みであろう。また幼少期からの諸先輩との繋がりは代えがたいものがあるようにも思う。
本書は機構を知り理解するには良書だと思う。混沌とした政治環境は暗黙の統辞構造があるように思えてならない

 

消費するアジア – 新興国市場の可能性と不安 (中公新書)

アジア圏が重要なマーケットになることは周知されている。しかし細かいことはよく知らないとうのが現実ではないだろうか。本書は“かゆいところに手が届く”基礎的なことが網羅できるのではないか。さすが中公新書と言える。人物、マーケットなど知りたい時、中央公論社の新書は役に立つ。

S&Pによる米国債格下げを挟んで円、株、債権が荒れ模様だ。強気と自信の現れか中国などは過激な発言を繰り返している。そうした発言する国家ではあるが、中国の世帯年間可処分所得は5000㌦以下が66%を占める。ASEANでは60%、インドでは81%を占める。こうしてアジア圏を見るとあまりよいマーケットのようには思えない。しかし本書は地域=都市としてアジア圏を捉えているのである。引用して都市生活を紹介したい。

【中国を国としてみれば、まだ途上国に過ぎない。しかし消費市場として注目を集める上海の一人当たりのGDPは2009年に1万㌦を超えている。この1万㌦という水準は世界銀行が中所得国と高所得国を分ける基準であり、その意味では上海市場は先進国なみなってきたということになる。…ちなみに購買力評価レートを用いれば、上海の一人当たりGDPは2万㌦を超える。これは中国において地域間所得格差が大きいことに起因するが、同じことがASEAN諸国、インドにも当てはまる】

どうやらアジア圏は国家でなく“エリア”で捉える必要があるようだ。この成功モデルを衛星的に拡張していくのだろう。この現象をメガ都市とし次のように説明している。

【都市にいけば失業の可能性もあるが、高所得を得られる可能性もあるという「期待」が強く影響すると考えたのである。実際に、途上国の大都市が、失業者が多いにもかかわらず、多くの人々を吸収し続けたのは、そこが、貧困から抜け出せるかもしれない“期待の場所”であったからである。このように「過剰都市」として区分されたアジア新興国の大都市が、現在では消費市場として期待される地域へと変化してきたということは、結論から言えば、経済発展のなかで過剰都市問題を徐々に克服してきたことを示すものにほかならない。アジア新興国の都市は途上国型都市から先進国型都市へと移行する過程にある。このような新興国の大都市を過剰都市と区分するため、本書では「メガ都市」と呼ぶ】

 急激な成長はメガ都市が大部分占めるということか。本書ではタイに紙幅の多くを割いている。国内企業ではマーチなどすでに逆輸入を始めとし日産が生産の多くをタイへ移転している。これもタイマーケットを狙ってのことだろう。
こうした現象を踏まえると、日本は地理的だけでなく経済圏をも「アジアの一部分」として捉える必要がありそうだ。汎用品で言えば“技術立国”という優位性はもはや難しくなりつつある。

こうしたことを踏まえ将来へどう舵を取るか深い考察が必要である。数多くを教示してくれる一冊だった。

 

トレラン 南高尾

On 2011年8月7日, in life Style, by admin

久しぶりのトレランを連日行った。コースはいつもの城山湖から南高尾だ。午後の予定もあるので両日とも帰宅まで時間限定して実行。最近雨が多いがこの2日間は晴天が続いた。水源となっていること、ミシュラン三ツ星高尾山の裏庭であることなどからとても走りやすい(走るのは下山に限る)。

このコースが陣馬、高尾の繋がることは知っていはいた。今回“大垂水峠”目前まで走り実感した。高尾は手軽トレーニングコースだったのだ。“山の体は山で鍛える”という言葉がある。過日の北岳で手痛い目にあったの何とかせねばと休肝日を週に3日、朝にPlusし夜間の有酸素運動とこの3週間取り組んできた。実践トレーニングコースがこんな身近にあったとは。7時間程度の縦走も可能なようだ。

これについては是非夏季休業中に実行したい。丹沢や奥多摩のような自然観や空気の冷たさを味わうことはできない。しかしあふれるばかりの緑は魅力的である。