Web社会には多数の価値観を共有したグループが存在する。企業はこうしたグループを如何に形成するかまたは出会うかが重要となる。こうしたbaにおける企業と顧客の関係性は従来の貨幣を通じての関係ではない。著者は“刹那的な関係から持続する関係へ”と述べている。また持続的な関係を本書では「エンゲージメント」と読んでいる。更エンゲージメントについて次のように解説を加えている。
【企業が集中豪的なキャンペーン広告に消費者を引きずり込んだりするようなやり方ではなく、企業と消費者の間にきちんとした信頼関係の中でモノを買ってもらう。広告の世界では、そういう関係性がマスメディア衰退後の世界では非常に重要だとここ数年強く認識されるようになっていて“エンゲージメントというようになっているのです】

昔ながらのマーケティングは成立しない。本来あるべきマーケティングの型に転換したのだ。この企業と消費者を繋ぐのがSNSということになる。中小企業はとかく信用力や資産など大手企業と比べられる。しかしSNSは対話のなかで取り除くことを可能にする。SNSへのチャレンジはパラダイムを転換する可能性すらある。

本文冒頭に【価値観を共有したグループが存在】と書いた。しかしいま価値観は多様化している。これは人間の多面性という事なのか。例えば自社の求める顧客層をプロファィリング化しても“ざっくり”とした分析しかできない。またライフスタイルを描こうとしても描ききれないのが現実ではないだろうか。これは出版業界にも現れていないだろうか。女性向け雑誌は読者参加型の企画が多い。これは多様な“読者モデル”を登場させることで“自分と身近なモデル”を発見させる。10人いれば10人のライフスタイルが描ける。確率的に高まることは言うまでもない。マーケットからモデルを引き上げ共感者のグループを形成するということにつながるのではない。文化の発信者であった出版が姿を変えた一面と言えるのか。

価値観の共有を次のように論じている。

「いまやわれわれの社会の人間と人間の関係が多層化し、多方向化し、複雑な山脈のように構造が変化してきていることがわかっていません。そもそも会社や業界のような、自分を繭のようにくるんでくれるコミュニティなんて今の日本には存在しないのです。私たちはそのような「同心円」的な関係ではなく、もっと「多心円」的な関係の中に生きている。関係は無数に立ち現れては消え、つねにアドフォックに存在する。そしてそうした人と人とのそのときどきの新鮮な関係はつねに確認していかなければならない」

混沌と整然を繰り返すコミュニティは多面的である。多面に対して多面な対応を可能とするのがSNSということになるのでないか。

 

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

共感する一冊。

マーケティングプランを考える必要に迫れて数冊本を購入した。確か最近日経か産経の推薦図書にも上げられていたように思う。マーケティングプランにweb戦略は欠かせない。しかしweb知識はフルスピードで変化する。そんなことから日頃は俯瞰して概観することにしている。ただSNSのような道具Plus概念的変化には利用者的な視点も欠かせない。本書はその両面を多様な角度から“変化”を論じてくれている。

【….幸福な生のためには物と違う原理が必要であることに、われわれはいまようやく気がつきだしている。いやむしろ物のとらわれる、購買、所有、消費、廃棄のリサイクルにとらわれている限り内面的な充実は得られないことに気づきだしている。….真のゆたかさ、つまり内面の充実のためには、所有の限定、無所有の自由を見直す必要があると感じている。人が幸福に生きるためには一体何が必要で、何が必要でないかと、大原則に戻って考え直そうしている人が大勢出てきている】

これが消費から【コト】への変化であり、モノから何かをする【コト】への変化だと著者は述べている。これは国内に限ったことではない。EUには旧来からこうした傾向を感じる。ブランド企業の日本撤退もこうしたことの現れのように感じられる。ブルガリの仏LVMHへの売却はこのひとつの現れかもしれない。
対照的なのは旅行者数である。内外旅行者数のマーケットを見ると失業率などネガティブ要因があるにも関わらず高止まりしている。これもコト、物語への関心の強さ現れかもしれない。 “内需と消費”が景気対策の主軸のひとつにあげられているがどうやらヒトの感情や動きと乖離があるように感じてならない。

こうしたなかで我々はどう考え行動をとったら良いか。いくら熟慮してもフルスピードで変化することは間違いない。この問への答えを本書は随所に散りばめているのだ。

解の一つが “情報を求める人が存在する場所”を“ビオートプ”(生息空間)である。biotope とは有機的に結びついた、いくつかの種の生物で構成された生物群の生息空間」だそうである。お気づきの通りまさにSNSなのだ。ビフォーゲイツであれば学校やカルチャーセンターのような所で同様の価値観を有する集まりが発生した。社会であれば企業という枠のなかで組織文化が発生した。SNSは緩やかではるが同様の文化感を有するものの集まりであると言える。さらにデジタル社会は集合へのハードルが低くとても入りやすくなっている。

ネガティブ要素が何も無いようにも思えるのだが実際はそうではない。本書を元に次へ続けたい。

 

週刊 ダイヤモンド 2011年 1/29号 [雑誌]

 とかく注目されるソーシャルメディア。中でもフェイスブックは加熱している。そこには中東問題がある。ビシネスとしてのソーシャルメディアとして本書を購入した。ビジネスとしてのソーシャルメディアは“中長期的に顧客との関係構築のため”というのがビジネスの本質であろう。河野(2010)は短期的な利用ではその真価は発揮できないと述べている。そのためにはまず自分自身がアクティブなユーザーとして、ソーシャルメディアに関す知式、情報、経験を培うことが重要であると考える。

 ソーシャルメディアは広告として捉えてはならない。すでにマスメディアを通じて一方的に配信する広告はその効果が薄れている。これはホームページを含むもだと捉えている。こうした現象を導き出したのがソーシャルメディアである。従来型の広告は【1 対 多】の関係性である。ソーシャルメディアは【多 対 多】となる。顧客と直接的に接触するソーシャルメディアは絆を強める。【多 対 多】により顧客間のつながりは想像を絶するものとなる。新たな価値観で戦略を講じなければならない。アプローチが全く違うものなのだ。

 企業は“広告という概念”で捉えるがユーザーに取っては心地良い空間なのである。企業は心地良い空間創りが使命なのだ。こうした空間をどのように構築するか。物語が形成されるbaと言っても良いのかもしれない。

 直近の課題としてこのハードル少しずつ上げていきたいと思う。

 

NPO法人 知的生産技術研究会の主催で寺島実郎氏の講演を約2時間に渡って拝聴した。
“今後世界がどのように動き、日本がどのような環境下に置かれるのか”という副題が付くセミナーであった。

 こうした問題はどのような人物であろうが正解などわかるはずはない。しかし講演で得たものは正解に近づいた意見であったように感じてならない。歴史、データーなどを多様な視点から分析した結果。それを自己の文脈に落とすことで解が得られている。武力から計算力・記憶力へと求められる能力は変化した。ITC時代はこの文脈が人の力であり能力なのだろうか。

 講演のキーワードは「歴史観認識」と感じた。
中東が騒がしい。中東原油は日本にとり生命線でもある。この問題が今後どのような影響を及ぼすのかは極めて関心が高い。直接的影響力を示すのはEU、米国、中国である。我々この問題解決に対して当事者能力を有することは難しいと思う。同盟国である米国の影響力行使状況を見ながら判断することが求められる。

以下講演を中心に資料を加えまとめることとする。

 日本が何故に当事者能力が行使できないのか。1946年の終戦から60年を以上経過している。この要因は“歴史認識の欠如”であると述べている。これは中高年に見られるマニア的歴史知識ではない。分析力なのだ。その解析能力が自己の文脈となる。
 例えば“中国の日本への行動”は異様である。日清戦争、満州事変、支那事変といった問題だけではないとのことである。ここには遣唐使、遣隋使からの流れがある。更には織田信長の旗手は【永楽通寶】なのだ。永楽通寶は当時中国が東アジア圏に対して輸出用通貨として造幣したものである。なぜ独立国家である日本が明銭を使用するのか、更には暦も同様に民の暦を使用している。これは“文化的支配”に写る。
 こうしたことを踏まえ江戸時代の鎖国は【中国支配から自立プロセス】との分析がなさ
れていた。そうであれば まず“中国が日本”鎖国による“相互自立”という流れが読め
る。次に日清戦争、終戦、現在に至るということになる。

 終戦後はとかくマッカーサーがキーワードなる。日本は連合軍に占領されたのである。
以下wikiでは次のように記されている
「8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本
占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いて
イギリス軍やオーストラリア軍中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した」
 
 中国は占領した“国家”という視点があるのではないだろうか。この文脈の違いが相互
にあるように感じる。こうした積み重ねが多々あれば意思の疎通などできようはずはない。

つづく

 

政権交代バブル  竹中平蔵

On 2011年3月2日, in 書評, by admin


政権交代バブル (Voice select)

09年11月初版民主党政権樹立後の苦言である。竹中氏が望んだことは粗何もなされていない。安倍政権後日本は何か進化したのだろうか。まるで坂道を転げ落ちるかのように感じてならない。

民主党に限らず3権分立の一翼を担う“官僚”がとかく問題視される。しかし問題は“族議員と官僚の関係”という一面もある。自分たちの仲間の問題ではと思うのだが。著者らが行った“郵政民営化”では抵抗勢力としてレッテルを貼られ動きを封じられた。本書とは離れるが、外務省・防衛省を始めとする省庁には米国や中国のつながりがある。これに対して代議士は、全く太刀打ち出来ないのが現実的らしい。

郵政民営化をすべきか否か。郵便・ユーパック・預貯金と代替機関が多数ある以上、民営化すべきと思う。しかし尊敬する賢人には“すべきでない”という方もいる。麻生政権以降民営化とは逆回転している。郵政の派遣社員を正社員化するといった発言すらある。郵便が毎年3%ダウンしている。ロジカルに説明を求めたい。

日々危機感が増す昨今である。

 

民の見えざる手 デフレ不況時代の新・国富論

本書副題は【デフレ不況時代の新・国富論】とある。マーケティング戦略の鉱脈としてさまざまな提案がなされている。自らの考える力が如何に脆弱かを思い知らされる。俯瞰して考察をすることの大切さを教示された。

プロローグでは政策が無意味であるかを次のように述べている。

 「….ここで思い出されるのが、バブル崩壊後の日本でたびたび繰り返されてきた「緊急経済対策」だ。ざっと300兆円にも上る景気対策費用は、あらかた「緊急」とは思えない
公共事業に使われたが、ついぞ景気は上向かなかった」
ここで我々が捉えなければならないのは“国が資金を投じても景気は上向かない”という結論である。著者は「今や経済はマクロ政策が効かないだけでなく、政府そのものが無力になっている」とまとめている。

 “政府が無力”という著者の言葉をどう捉えるか。個々の判断には違いない。しかし例えば昨日の竹中氏はこれだけ意味の無い政策が繰り返されていても、いまの経済状態を保てることはすごいことだと述べている。他の識者も政府の限りない力不足について発言している。俯瞰して考えればこの酷さは歴然としている。裏をかえせば我々は鉱脈を発見しなければならないのだ。

 本書はこの鉱脈がいまだ国内にも多数ある。海外へ目を向ければその数は限りないと論じている。セレディピティとロジカルシンキングこの連立方程式が答えを導きだしてくれるのだろう。例えば3/1日経には“ゲームセンターで過ごす老人”の増加が取り上げられていた。日に3000円を消費する人もいるとのことである。これは“コト”がコンセプトだろう。友人とともに過ごす、ともにゲームをする物語の共有、出会。ゲームは手段にすぎず企業はBaの提供者なのだ。

 こうしたコンセプト・デザインを描くことが企業の命運を握るのかもしれない。本書には多数の鉱脈がながれている。貴重な出会いだったと思う。